中学時代の78年、13歳で『全日本体重別選手権』のタイトルを奪取し87年まで10連覇。84年には『第3回世界選手権』金メダルと、19歳にして世界の頂点に立つなど、視界良好であった。
「しかも山口は『全日本〜』で分かる通りクラス(体重別)が殆ど変らなかった(1〜2回は50キロ級で3〜10回は52キロ級)。思春期で体質が変わりやすい時期も徹底的に自分を追い込みウェートコントロールしたのです。まさに“柔道命”であった訳です」と、当時を知るスポーツデスク者は語る。
とはいえ、高校時代…「お年頃」の山口には、実は周囲に言えない悩みを抱えていたという。
「日本の柔道女王と言っても、その“肩書”は同年代の男子は無関心で興味が無い。しかも当時、山口は美人で結構、モテたのです。勿論、彼女には意中のオトコがいました。“いっそ、柔道を止めて普通の女の子に戻り、キャンパスライフをエンジョイした方が私の為になるのでは…”と、本気で考えていたようです。何と人知れず柔道を続けるか、止めるかの岐路に立っていた時期があったのです」(週刊誌記者)
意外にもストイックではなくミーハーな一面があった山口だが、このフランクさが、彼女を世界のトップにさせた要因では無いだろうか。「決して気負わず、決して焦らず」−−彼女のスタイルは今、行き詰っている日本スポーツ界において、もっとも必要な心構えだろう。
それはさておき、10代後半から20代前半はまさに、山口のピーク時。前述の『全日本〜』10連覇をはじめ、『世界選手権』は80年の第1回(第4回大会まで変則開催)から87年の5回大会まで銀メダル4回(前述したが83年第3回大会は金メダル)と驚異的な成績を残す。
そして、全国民の期待を一身に背負って出場した『ソウル五輪』(88年)…国民の多くは彼女の実績から「金」を期待したのだが、結果は「銅」。23歳といっても、10代から女子柔道をけん引してきた山口にとって、この頃は、競技人生の晩年。当時、柔道関係者が「2年前に五輪があれば、間違いなく金メダルを獲っていた」と嘆いていたのが印象深かった。
翌89年、筑波大学大学院体育学修士課程修了が決定すると現役引退を表明。その後は、柔道界のみならず、タレント活動まで進出、マルチな活躍を遂げている。
その最たる例が山口自らモデルとなった漫画『YAWARA!』の劇場版作品への出演だ。89年公開の同作品で山口本人が登場したのだ。
「山口は現役時代の87年にも『アメリカ横断ウルトラクイズ』でウイニングアンサーを務めた過去があります。こう考えると、今の田村亮子が歩んでいる道を山口が開拓したと言っても過言ではないでしょう」(事情通)
98年、武蔵大学人文学部助教授になった山口は07年、同大学の教授に昇格。08年には母校・筑波大学大学院人間総合科学研究科准教授に就任。全日本柔道連盟女子強化委員も兼務し、現在に至っている。