橋本真也も武藤敬司も去り、藤田和之や高山善廣、ボブ・サップら外敵軍がリング上を席巻する“新日冬の時代”のことであった。
上司の理不尽な要求に困らされるというのは、およそすべての勤め人が経験することであろう。2002年、新日本プロレスに参戦した女子レスラーのジョーニー・ローラーは、まさにそのような悩ましい“案件”だった。
'97年に“チャイナ”の名前で、マネージャーとしてWWE(当時はWWF)に参戦すると、その筋骨隆々とした姿から“世界9番目の不思議”と注目を集め(世界七不思議に次ぐ8番目はアンドレ・ザ・ジャイアントで、9番目がチャイナとの意味)、'99年からは男子戦線に進出。女子としては初めて同団体の主要タイトルを獲得している。
'00年には米国の男性娯楽誌『PLAYBOY』でヌードグラビアを発表するなど人気も上々だったローラーだが、WWE内部のいざこざにより、'01年をもって退団。翌年4月、新日が設立したばかりのLA道場を訪れたことをきっかけに、参戦を果たすこととなる。
「このときLA道場の責任者だったのがサイモン猪木。新日の総帥であるアントニオ猪木の娘婿です。'00年に新日入社したサイモンが、LA道場の実績づくりとしてローラーのブッキングを画策し、それを猪木が後押ししたことで参戦が決まったわけです」(スポーツ紙記者)
それまでにも提供試合という名目で、北朝鮮平和の祭典や東京ドーム大会で女子の試合が行われたことはあったが、男女の絡みとなると新日では初のこと。
猪木の掲げてきた“闘魂”の旗印にはそぐわないと、これを快く思わないファンや関係者も少なくなかった。
では、猪木自身はなぜこれを認めたのか。
「まず、サイモンの手柄にするためというのはあったでしょう。また、同年に主催した格闘技大会『UFOレジェンド』にも参戦させたように、女子格闘家として手駒に加えたいという目論見もあったはずです。さらに加えて、WWEへのコンプレックスというのも大きかったのでは?」(同)
かつて提携関係にあったWWEが世界的なビッグプロモーションとなったことに、猪木は悔しい思いを抱いていたと伝えられる。そのWWEのスター選手だったローラーを新日でうまく活用できれば、少しは憂さを晴らすことにもなる。
「この頃、すでに猪木の関心は、小川直也をはじめとした自分の息のかかった選手を総合格闘技に進出させることしかなく、新日は資金を引っ張るためだけの組織としか見ていなかった。なんならローラーのブッキング料も、猪木の方へ入っていたのかもしれません」(同)
交渉についてはこちらで勝手にやるから、お前らはありがたくWWEスターを使っていればいい…ということであったか。
「実のところ、大の巨乳好きで知られる猪木だけに、そのあたりも多少はあったでしょう(笑)」(同)
ともかく、押し付けられたものとはいえ、創始者である猪木の要請は無下にできない。ケツを拭わされたのは、現場監督を任されていた蝶野正洋だった。
「同じ年の5月2日には三沢光晴と東京ドームで闘い、夏のG1にも優勝した蝶野が、いくら元WWEスターとはいえ女子レスラー相手では、内心忸怩たるものがあったでしょう。しかし、他の選手ではうまく扱いきれない懸念もあり、永田裕志ら本隊の選手に黒歴史を背負わせたくないという、責任感もあったようです」(プロレスライター)
蝶野が三沢と歴史的対峙をした大会に、まずは猪木の用心棒として登場したローラーは(タイガー・ジェット・シンが猪木を襲うところを蹴散らしてみせた)、特別レフェリーなどを務めた後に選手として参戦。
外道やエル・サムライを金的打ちでKOするなど連勝を重ねた末、蝶野に照準を向ける。そして、10月14日の東京ドーム大会が、一騎打ちの舞台となった。
ローラーは序盤からパンチ、キックで攻め込み、お株を奪うSTFまで敢行するが、慌てず騒がず、ケンカキック一発で勝負を決めてみせたのは、さすが蝶野の意地だった。
「ローラーのお尻をペンペンして勝ち名乗りを挙げるところに、金的打ちを受けて悶絶するというお約束の展開をそつなくこなしたのは、さすがアメプロに慣れた蝶野でした」(同)
その後、2人はタッグを結成して、魔界倶楽部との対決などでアングルを継続していく。
ローラーの婚約者との触れ込みで、やはり元WWEのシックスパックが登場。タッグパートナーの蝶野に嫉妬心からの抗争を仕掛けるという、本家WWEさながらのストーリーが展開されるかにみえたが、いつの間にか立ち消えになった。これも現場のやる気のなさの表れだったか。
新日に冬の時代が到来したことを告げる一幕であった。