田中角栄も、昭和53年7月、新潟の自分の強大な後援組織であった「越山会」婦人部の集会で、会場を爆笑の渦に包みつつこんな“角栄節”を披露したことがある。
「いいですか、皆さんッ。子供の週休2日制なんて言うヤツがいるが、絶対反対だ。子供は毎日、毎日、教え込まないとダメだ。1週間に2日も休んだら、元に戻ってしまう。サーカスの動物だって1日ムチをやらないと、一から出直しどころか、訓練そのものがパーになっちまいますよ。子供の教育は幼少期にありだ。大体、週2日も子供にまとわりつかれたら、おっかさんは生きていられなくなってしまうねぇ」
その田中の一貫した物事に対する誠心誠意、全力投球の姿勢もまた、幼少期に母・フメから学んだものだった。
大言壮語、バクチまがいの商売に手を出して失敗続きの夫・角次を尻目に、フメは一人、小さな田畑を守り、愚痴一つ言わずに困窮の生活を支えた。
朝、陽の昇らぬうちに田畑に出てしまう母の寝顔を、田中は一度として見たことがなかったのである。辛抱強さ、貧しいながらも人への面倒見のよさ、無口…。近所では角次へのカゲ口はあっても、フメの悪口を言う者は一人としていなかった。田中はかつて、こんな光景を明らかにしたことがある。
あるとき、新潟競馬に自分の馬を走らせ、高額賞金を夢見たが思い通りにいかず、角次が家に「60円のカネ送れ」の電報を打ってきた。もとより、そんなカネはない。結局、親類から借りることにした。フメは「お前を借りに行かせたくない」と留めたが、角栄は母を振り切って親類を訪ね、借りることができた。そのカネを越後線に乗って父に届けるさなか、窓の外に田植えをする母の姿を見た。角栄が一所懸命手を振ると、母も車中の角栄に向かって手を振った−−。
このとき、少年・角栄の胸をよぎったのは「この60円のカネは、田んぼで泥まみれになって働く母が得るカネの何倍に当たるのか」との思いと、労働というものの尊さ、重さであった。
田中は首相就任から1年後の昭和48年7月、全国勤労青年会館の開会式で、当時を振り返るように、次のような熱弁を振るった。
「私は、勤労ということを知らないで育った人は不幸だと思っている。本当に勤労をしながら育った人には、人生の思いやり、人生を素直に見詰める目もできてくるし、わが身に比べて人を見る立場にもなる。それは大きな教育だと、また教育であったと考えている。病気をしなければ病気の苦しみは分からず、貧乏しなければ貧乏の苦しみが分からぬように、勤労しない者が勤労の価値を論ずることはできない。勤労をしない人が、どうして勤労の価値を評価することができるのか」
その田中は二田尋常高等小学校卒業式で総代として答辞を読んだくらいの秀才で、教師からは中学への進学を進められた。しかし、母の労苦を思うと気が進まず、新潟県の救農土木工事での作業員となり、その働きが認められて柏崎土木派遣所の工事監督という職を経た上で、上京することになる。
「東京で勉強したい」、その熱心さが伝わり、伝手の紹介もあって理研コンツェルン総帥の子爵・大河内正敏邸での書生ということであった。
時に、15歳。上京計画を聞いたフメは喜び、「これはお前がこれまで働いた月給だ」と一銭も手をつけずに積んでおいたものを田中に差し出した。田中はこのカネがあれば母の労苦の少しでも足しになるだろうと固辞したが、フメは決して受け取ることはなかったのだった。
そして、この上京に際し、フメは三つの言葉を言い含めた。「人間は休養が必要だ。しかし、休んでから働くか、働いてから休むかなら、働いてから休む方がいい。悪いことをしなければ住めないようになったら、早くこっちに帰って来ること。カネを貸した人の名前は忘れても、借りた人の名前は絶対に忘れてはならない」
後年、田中は言っていた。「あの日の母の言葉を絶対に忘れないでここまで来た。母あっての私だった」と。かくして、田中は人生の出発点に立った。
男の人格は、多くは女がつくるものである。男は世の中の作法は見せてくれるが、人生そのものは教えてくれない。人格は、人生を大きく左右する。失恋、裏切り、離別、あるいは残してくれた優しさと厳しさ、そんな女との格闘の中で、男は人生そのものを知るのである。
幼少期の田中は、母の毅然とした「たたずまい」から、それを学んだということだった。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。