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プロフェッショナル 巧みの格言 伊南喜仁(演歌歌手) 「失われた日本人の魂を演歌で東北に届けたい」(2)

 横浜の印刷会社に就職。定時制高校にも通うようになった伊南を頼って、郷里の後輩も同じ印刷会社に就職したが、即、ホームシックにかかって「田舎に帰りたい」と言い出したと言う。後輩を止めるために伊南は「1年は辛抱しよう。1年経ったら、一緒に帰ろう」と約束したために、1年で辞める羽目に追い込まれてしまったのだ。
 「印刷会社の社長は涙を流して“辞めるな”と止めてくれましたが、後輩との約束を破るわけにはいかない。かといって、10年は帰らないと決めた手前、おめおめと帰れない。東京の杉並の八百屋に勤める従兄弟に就職口を相談。紹介されたのが杉並の印刷屋さんだったんです」

 2度目の印刷屋が伊南に民謡との運命的な出会いをさせて、彼の人生を大きく変えた。
 「ある日、家のトイレに入ったら民謡が聞こえてきた。『秋田おばこ』でした。社長宅のお手伝いさんに聞いたら“裏に民謡道場があって稽古をやっているの”と教えてくれたんです」

 民謡と出会った伊南は民謡道場に通って、めきめきと才能を発揮。いろいろな民謡大会に出場し、“大会荒らし”と異名を取った。
 「道場には鉄工所の社長も通ってました。その社長から“うちに来ないか”と誘いがあったんです。当時、鉄鋼は金になりましたから、印刷会社の社長に頼んで移った。でも、鉄鋼不況になって仕事がなくなった。そんな時に八百屋に勤めている従兄弟から“時間があるなら手伝いに来ないか”と誘われたんです」

 商いの才能もあった伊南は旬の野菜をたちまち売って、“商売上手だね”とおだてられて、民謡を習いながら働けるという条件で八百屋に転身。昭和41年に『サンケイ民謡大賞』に入賞して初のテレビ出演を果たしたのがきっかけで、民謡歌手の道を歩き始めた。
 「昭和43年には『日本郷土民謡協会全国大会』で宮城県の『長持ち歌』を歌って、念願の全国優勝を果たしたんです。翌年には、移動販売青果業がスタート。歌手の傍ら、トラックで野菜を売りに歩いたんです」

 その後、昭和57年に当時の『東芝EMI』から『にしん場恋唄』で流行歌手としてデビュー。“歌う八百屋”として脚光を浴びた。
 「当時は、競作ブームで8人が歌った『片恋酒』をレコーディング。“歌う八百屋”とワイドショーでも取り上げられました」

 筆者は親しくしていた大阪有線放送(現・USEN)の部長から「八百屋をやりながら、『片恋酒』を歌っている面白い男がいる」と紹介されたのがきっかけで伊南と知り合った。8人競作のこの曲は伊南が5万6000枚売り上げて、ダントツだった。ところが、伊南は表舞台から消えた。
 「一線から引いて若手の育成に努めようと思ったんです。津軽三味線を教えるようになりました」

 伊南は、依頼されるレコーディングの話も断り続けてきた。その伊南に、もう一度、歌で勝負しようと決意させたのは作曲家の泉盛望だった。

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