それまでの戦後の日本外交は米国一辺倒、対米追従外交であった。これから何とか脱却できないか、田中は米国と中国を、言うなら“両天秤”に掛ける自主外交を模索したということであった。背景には、単なる時代の流れということではなく、巨大な人口を抱える中国の市場を今後の日本経済を考えれば無視できないということがあった。
しかし、この日中国交回復実現には、いくつかの難問があった。最大の難問は、対台湾問題であった。時に、それまでの日本は、台湾の蒋介石総統の国民党政府をもって中国政府であると承認してきた。ところが、毛沢東主席の北京の中国共産党政権は、日台間の条約を破棄、台湾を切り捨てなければ国交回復はあり得ないという姿勢を鮮明に打ち出していた。
この“台湾切り捨て”には、「親台湾派」の自民党内外から強固な反対の声があった。「怨みに報いるに徳を以てす」として戦争賠償金の請求を放棄した国民党政府を切り捨てるのは、国際信義にもとる、という声に代表された人たちだ。
こうした難問に一役買ったのが、当時の野党、第3代公明党委員長の竹入義勝であった。
当時の田中と公明党は、関係が良好であった。竹入はこの年(昭和47年)7月末、党独自の日中国交回復素案を持って北京を訪れ、周恩来首相と会見した。国交回復を目指す田中の意向の“黒子役”を果たしたことは言うまでもなかった。
このときの会見では、周首相の示した国交回復に当たっての条件に、中国政府としての対日賠償請求権の放棄が表明されていた。竹入は帰国後すぐに田中と会い、周首相との会談内容を詳細に記したメモ、いわゆる「竹入メモ」を渡すと同時に、早期の田中訪中を促した。一方の田中は、直ちに自民党や外務省首脳と検討、日本側提案を作成、党幹部や外務省担当者を北京に派遣するなど予備折衝に入り、結果、田中は歴史的訪中を迎えることになったのだった。
当時の田中の心境を、秘書の佐藤昭子は『私の田中角栄日記』(新潮社)で次のように明らかにしている。以下は、その要約である。
「田中は突然のニクソン大統領の訪中、米中国交回復を『やるもんだなぁ。中国は10億(当時。現在は約14億)もの人間がいる隣国なのだから、日本も国交回復を考えねばならん。オレは、中国には命を懸けて行く。命は惜しくない。深夜、目を覚まして思うのは、常に国家国民のことだけだ。(「安保条約」をやった)岸(信介元首相)さんも言っていたが、この気持ちは総理経験者でなければ分からないものだ。ただし、日本国の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。国益を最優先して、向こうと丁々発止やる。いよいよとなったら決裂するかも知れんが、そのすべての責任はオレがかぶる』と言っていた」
9月25日。田中首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官らが、いよいよ北京に向かう。羽田を発った特別機は二階堂の地元・鹿児島の上空を飛んだ。折から、桜島が噴煙を上げていた。二階堂が眼下の桜島を指差して、田中に言ったと同行記者の証言がある。「総理、桜島も燃えていますな」。
その夜の周首相主催の夕食会で、中国側は細やかな配慮、演出をした。田中の新潟、大平の香川、二階堂の鹿児島の故郷の曲である「佐渡おけさ」「金比羅船々」「鹿児島小原節」のメロディーを、大宴会場に流したものであった。
しかし、以後の交渉そのものは、田中らの予想以上に難航した。田中・周会談は、実に4回に及んだ。3回目のそれが済んだ後、田中は毛沢東主席と会談した。先の佐藤昭子は、こうも続けている。
「毛主席は会うやいなや、『周恩来とのケンカはもう済みましたか。ケンカをしないとダメですよ』と言ったそうです。『独特の風格があった』とも言っていました。中国にいる間の田中は、血圧は200以上に上がり、血の小便さえ出たそうだし、食事ものどを通らず、おかゆだけで過ごしたこともあった」
9月29日。ついに日中共同声明発表に至る。同時に、これに反発した台湾が日本との国交断交を発表した。
政治生命を懸けた米国一辺倒外交から自主外交を模索した田中の日中国交回復交渉。米国に「一国主義」のトランプ政権が誕生、あれから45年を経た今この国は、改めて独自の外交を模索しなければならないことを突き付けられている。政治家に不可欠なのは「先見性」であることが、突き付けられているということでもある。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。