徳次は暮れに岩佐琴子と再婚した。
大正15年は、大正天皇崩御の12月25日で終わる。元号は昭和に改まり、1週間足らずの昭和元年が明けて、昭和2(1927)年になった。この年の3月、金融恐慌が起こる。日本放送協会九州支部が5月に開設されるという情報を得て、徳次は福岡県博多でラジオの見本市(福岡放送局開局記念見本市)を開催する計画を立てた。九州地方の市場開拓を図るのだ。
金融恐慌による不況で苦しむラジオの部品メーカーや、卸店、輸入商など十数店に働きかけて特別出品の依頼をした。各業者から商品を卸値よりもさらに1割引きするという格安の取引を結んでもらうことができた。九州一円のラジオ器具販売業者には二等汽車往復料金を添えて送り、見本市へ招待した。
5月の開局を控えて盛り上がっている時期だったため、見本市は大盛況だった。入場者は会場の料亭トキワから溢れるほどだ。ところが、肝心の売行きがよくない。初日の午前中だったが、徳次も含め、売り手の業者たちは皆、心配顔だ。徳次は苦肉の策で、昼食休憩の間に陳列の商品に“売約済”の赤札を張らせてみた。すると、午後になってから売約が続出した。そして予定の2日間で商品のほとんど全部を売りつくすことができた。売約済の赤札を張った商品は、客の前でそれを剥がすわけにはいかないので、予約をとって新出張所に持ち帰り、そこで札を剥がして渡すというややこしいこともした。
6月には中国・上海でも見本市を開いた。九州とは比べ物にならないほど大規模なものだった。中国の人達も始めは様子見をしていたようだったが、ここでも売約済の札は大変な威力を発揮し、全商品を完売することができた。