当時、三枝はバス会社を経営していて、事業を軌道に乗せていた。するとあるとき、知人の紹介でやって来た男が赤城の埋蔵金発掘計画に出資を求めてきたのだ。伝説そのものについてある程度の知識はあったし、水野父子の発掘のことも知ってはいたが、本気にはなれない。だが、男があまりにも熱心に語るものだからつい心を動かされ、金に余裕がないわけでもないので少しばかりの額を渡すと、それに味をしめ、たびたびやって来るようになった。
不審に思いながらもズルズルと金を渡しているうちに、総計でかなりの金額になってきたので、かつての警察仲間に調べてもらったところ発掘は行われておらず、方々から集めた金は遊興費に消えてしまっていた。
三枝は現場近くで酒色にふけっていた男を取り押さえて詫びさせたが、元警察署長のプライドから、これを表沙汰にすることはなかった。それよりも初めて赤城山麓にやって来て、水野家の発掘の様子やうわさ話も含め埋蔵金に関するさまざまな情報を得てみると、全く眉唾でもなさそうだと感じ、自分の勘を頼りにいろいろ調べてみた。
現役時代は腕利きの警察官だったから捜査はお手のもの。さほど時間をかけないうちに、いくつかの手掛かりをつかんだ。
彼は『双永寺秘文』にあった、「一将ヲ覓ムルトキハ七臣ニ達シテ天下平ナリ」の「一将」とは、古井戸から出た家康像(当時はそう思われていた)で、「七臣」は甲乙丙丁戊己庚のうちの七番目の「庚」ではないかとひらめいた。さらに、家康像と一緒に出土した銅皿に刻まれた「子」と「十」(正しくは「井」だが、当時はそう思われていた)の文字に注目し、井戸から子の方角(北)に十尺か十間か十町行ったところに「庚」に関係した何かがあるのではないかと考えた。
すると、北へ十町(約1キロメートル)行ったところに、彼を喜ばせるものが見つかった。たくさんの庚申塔が立つ百庚申(ひゃくこうしん)である。
その場所は、現在の渋川市赤城町長井小川田。水野家のある津久田から、銅板に刻まれた秘文が見つかったという双永寺へ向かう途中の、農道から一段上がった台地の上だ。
三枝は、ここで一大決心をする。バス会社は順調にいっていたにもかかわらず、これを手放し、全財産を懐に赤城に乗り込んだのだ。
「400万両を掘り出し、国のため人のため、大いに役立てる」
彼は百庚申の近くに土地を借りて小屋を建て、土との戦いを開始した。
翌年の春、目と鼻の先の崖沿いの場所で、土に埋もれていた祠が見つかり、その中から仏像とともに日本刀一振りが見つかった。これは後に名刀『村正』と発表されている。また、その周辺から「此の山の中を尋ねよ」「天下平也」などと文字を彫り込んだ石が現れた。
三枝は狂喜した。いよいよ宝は近い! 「一将(家康像)を求めて七臣(百庚申)に達し、宝を見つけて天下に平和が訪れる」というわけだ。
しかし、いくら掘っても黄金が顔を出す気配はない。わずか数年で資金は底をつき、やむなく親戚や知人から借金をするようになった。三枝ほどの人物が、「宝が出たら、何倍にもして返すから」と言うのだから、それを信じて最初は貸してくれる人もいたが、次第にソッポを向かれ、揚げ句の果てには山師だの狂人だのと、ののしられるようにさえなった。
人手の方は、最初は三枝をだまして金を巻き上げた男が罪滅ぼしに手伝っていたが、食うや食わずの暮らしの中で体を壊して早死にし、しばらくは独力で掘らざるを得なかった。やがて、ある人物が協力を申し出て小屋に同居し手伝ったが、彼もまた病死する。
金もない、人手もない、もはやこれまでかと諦めかけた三枝の前に救世主が現れたのは、1957年のことだった。
東京の大塚で『千成最中』という製菓会社を経営する清水信次郎氏が、資金の援助を申し出たのである。おかげで、深い縦穴の昇降を楽にする、大型のモーターやウインチなどの機械類を購入することができた。
地下66メートルの地点に宝庫らしいものを発見したのは、その直後だった。(続く)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。