「桃色争議」と呼ばれる本事件は、前年の1932年(昭和7年)に発生した「映画活弁士首切り闘争」に端を発する。トーキー映画(発声映画)の台頭により仕事を失った活弁士の労働争議は見事な勝利を収め、無事に解決……と思われた。しかし、そのしわ寄せは別部署であるはずの松竹歌劇団に及び、所属座員の給与・待遇の低下をもたらすことになった。
この待遇に怒りを覚えた松竹歌劇団の有志数名は、スト隊を結成。新聞記者をかき集め、松竹の本社と戦う意思を明らかにした。当時、松竹歌劇団の少女座員は劣悪な状況に置かれており、「楽屋には南京虫が滞在している」、「おかずは鮭とたくあんだけ」「200名を超える座員がいるのに、楽屋にはトイレは二ヶ所だけ」といった窮状をマスコミへリークした。
そして、少女部員230名は待遇の改善を訴えて6月15日、神奈川県の湯河原温泉郷の大旅館に立てこもりストを決行。また、同時に大阪で活躍している松竹楽劇部も歌劇団のストと時を同じくストを決行し、総勢300人を超える松竹歌劇団の座員がストに参加した。
このストライキは7月8日までおよそ半月に渡って行われ、その間、松竹歌劇団は開店休業状態。松竹の本体に大きな金銭的ダメージを与えたとされる(後に改善が行われ、座員の最低賃金引き上げおよび週休制が制定された)。
なお、この事件で旗手および争議委員長となっていたのが、当時18歳で松竹歌劇団のトップ人気だった水の江瀧子であり、この騒動の影響で水の江は2か月の謹慎となり、この騒動時に培ったリーダーシップが、後に彼女を映画界を代表する名プロデューサーへ成長させたとされている。
文:穂積昭雪(山口敏太郎事務所)