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現役プロレスラーの死はファンにとって実に切ないものである。試合を見たことのない、名前もよく知らない選手であったとしても、その訃報に接したときには、どこか胸が詰まるような気分になる。
なぜかといえば、多くの死の原因がプロレスの構造そのものに由来しているからではなかろうか。
例えば、試合中のリング禍。他の格闘系競技ならば、相手の技はかわせばいい。危ない場面にわざわざ自分から踏み込む必要はない。
だが、プロレスではそうはいかず、相手の技はできるだけ派手に受けてみせ、そのことによって試合を盛り上げることをファンだけでなく、プロモーターなど関係者からも望まれる。
勝つためだけならば自分の勝ちパターンに専念すればいいのだろうが、観客にいっそうのインパクトを与えるためには、危険を承知でより見栄えのする技を披露し、これまで見せたことのない技にも挑戦しなければならない。
また、体調がすぐれないからといって、自分の名前でチケットを売っている手前、安易に休場することもできない。一見すると試合とは関係なさそうな病死や自殺でも、その原因がプロレス興行のためであることは多い。
「今のように薬物使用が問題視されていなかった頃は、多くの選手がリング上で見栄えのする体を作ろうと、気軽に筋肉増強剤を使用していたし、連戦による体の痛みを抑えるため、麻薬成分にも似た効果絶大のペインキラー(鎮痛剤)を常用していた。ハイテンションで試合に臨むため、興奮剤を使う選手も珍しくなかった」(プロレスライター)
そうした薬物の乱用は肉体のみならず、時に精神までむしばむことになり、これらが相まって病死や自死の原因となったケースは、決して少なくない。
「派手な技にしても薬物にしても、それで観客にアピールするのは自分の格上げやギャラアップのためであり、自己責任との見方は当然あるでしょう。しかしこれも、そんな選手たちをファンが喜んで受け入れ、もてはやすからこそともいえ、その意味においてレスラーとファンは一種の共犯関係にあるのでは?」(同)
そうしたプロレスを取り巻く事情を無意識のうちに感じ取っているからこそ、ファンはプロレスラーの死を切なく受け止めることになるわけである。
★長州の技を受けない“不穏試合”
1988年7月、プエルトリコ興行の控室で、ブルーザー・ブロディはレスラー仲間のホセ・ゴンザレスにナイフで刺殺された。
その後、法廷においては現場に居合わせた関係者のすべてが証言を拒否。その結果、真相は不明のままとなり、プエルトリコの地元びいきもあってか、ゴンザレスは“正当防衛”で無罪とされた。
一般にはプロモーターとの契約トラブルが直接の原因といわれ、ほかにも舐めた態度への制裁説(ブロディはトップヒールとしてのプライドが高く、用意されたアングルを受け付けなかった)、ゴンザレスの私怨説(ブロディが小柄なパワーファイターを蔑視して、対戦時にもまともに相手をしなかった)などともいわれるが、いずれにしてもブロディの個人的事情を優先した結果であって、先に記したリング禍などとは別種のものにみえる。
日本でも'85年、両国国技館におけるプロレスこけら落としの全日本プロレス大会では、長州力の技をまったく受けない“不穏試合”を行ったり、同年に移籍した新日本プロレスではIWGPタッグリーグ決勝戦をボイコットするなど、ブロディ絡みのトラブルは多くあった。
「両国の記念大会のメインイベントに選ばれたのが、自分でなくロード・ウォリアーズであったことや、かねてから評価していない小型パワーファイターの長州力が相手だったこと、IWGPタッグでは負けブックを提案されたことに対し、それぞれ不満に感じてのことだったと思われます」(同)
全日から新日への移籍も、全日がさまざまな選手を新日から引き抜いたことが、自身のメインイベンターとしての価値をおとしめる行為と考えてのことだった。
そうして見るとプエルトリコでの惨劇も、ブロディの「自分がトップでありたい、あるべきだ」というわがまま勝手が招いたもので、自業自得と受け取る向きもあるだろう。
「ただ、それはブロディ自身の信じる“プロレス道”を貫いてのこと。正しいと信じる確固たるスタイルがあって、ほかの誰かが何を言おうとも、ブロディはそれを曲げることができなかったのです」(同)
言うならば頑固職人であり、そうした意味ではやはりブロディの死もまた“プロレスに殉じたもの”といえるのではなかろうか。
ブルーザー・ブロディ
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PROFILE●1946年6月18日〜1988年7月17日。米国ミシガン州出身。身長198㎝、体重140㎏。得意技/キングコング・ニードロップ、ワンハンド・ボディスラム。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)