その梶山をかの田中真紀子外相は「凡人・小渕(恵三)」「奇人・小泉(純一郎)」「軍人・梶山」と称してカッサイを浴びたが、なるほど梶山は第2次大戦の終戦を「陸士」(陸軍航空士官学校)で終えている。その後茨城県議となり、弱冠40歳で全国最年少の県会議長となった。当時、日の出の勢いだった自民党の田中角栄幹事長の目に止まり、「茨城に威勢のいい、なかなかの人材がいる」で国会に引っ張りだされた。その緻密と豪胆が相まった政治手法に、その後、怖いものなしの田中をして、「もしオレの寝首をかく者がいるとしたら梶山をおいてないだろう」と言わせしめたほどの人物だったのだ。ちなみに、豪胆さで言えばのちに竹下(登)派の内部分裂の際、その主導権を握ろうとした同派の最高幹部だった小沢一郎(現・生活の党代表)を前に、「キミは謹慎しろ」と一喝したこともある。その頃の小沢は、勢いのもっともあった時だったのだ。
その梶山は、案の定、通産大臣、自民党幹事長、官房長官など着実に要職を踏んでいくが、その調整能力には誰もが目を見張った。いまの社民党が社会党と言われていた「55年体制」の自民党と社会党の対決時代、自民党にとっては何でも反対の社会党にホトホト手を焼いていた。そうした中で、梶山の存在がいやが上にも光ったのである。例えば、梶山が国会対策委員長として当時の社会党・村山富市国対委員長と渡り合った時のエピソードがある。社会党国対関係者の、こんな証言が残っている。
「梶山と村山はしばし政策の違いでぶつかりあったが、梶山の村山への向き合いかたは、まるでガラス細工をいじるような緻密極まりないものだった。議員宿舎の部屋が隣同士だったこともあり、深夜、早朝、村山の部屋に潜り込んでは説得、詰めを欠かさなかった。やがて2人の間に信頼関係が生まれ、これはのちの“村山首相”誕生に結びついている。また、梶山にとって厄介だったのは野党は社会党だけでなく、他の野党を含めての調整が必要だったが、例えば料理屋で各党国対幹部と話し合う場合も、梶山は自分から背中を見せるということがまったくなかった。酒を酌み交わしながらあらゆるカードをチラつかせ、徹底的に“落とし所”を探り合う姿勢で、自分から席を立つということがなかったということだ。こうした姿勢には、各党の国対幹部も『梶山には勝てない』と脱帽だったのです。緻密さは抜きん出ていた」
梶山は就寝時に、必ず枕元にメモ帳とエンピツを置き、アイデアが浮かぶとすかさずメモすることを欠かさなかった。また、持ち歩く手帳には小さな字がシャープペンでびっしり書き込まれ、書かれた字は次々に消しゴムで消され、また書き込まれるという緻密ぶりでもあった。こうした「落とし所」への方策は時に100通りも想定、あらゆる事態打開に備えたというエピソードもある。その計画、シナリオづくりの凄さから、自民党からは「工程師」との“異名”もあった。
そうした梶山をかわいがった金丸信元副総理は、「平時の羽田(孜)、乱世の小沢(一郎)、大乱世の梶山」と、その時代に合う首相候補として名前を挙げた。世が大いに乱れた場合には、梶山こそ“出番”としていたのである。しかし、梶山は「人には“分”というものがある。水戸(茨城県)は副将軍なのだ。天下の副将軍に徹しようというのが、私の人生観だ」とした。
表記の梶山の「根は臆病」という言葉はいささか“遠慮”した言い回しとみるが、重心の低さで周囲をまんべんなく見渡し、何があっても対応可能な姿勢を自負しているようである。読者諸賢も「臆病」恐れるべからず、物事に慎重に向かい合うことで、失敗が少ないのは言うまでもないのである。=敬称略=
■梶山静六=自治大臣(第36代)、国家公安委員会委員長(第46代)、通産大臣(第51代)、法務大臣(第52代)、自由民主党国会対策委員長(第35代、37代)、自由民主党幹事長(第29代)、内閣官房長官(第60代、第61代)を歴任。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。