時代によってさまざまな顔を見せてきた髙田延彦だが、その真の姿はいかなるものであったのか。
テレビのバラエティー番組でアイドルもどきの女性タレントを相手に「出てこいや〜」と繰り返す髙田を、現役時代のファンはいったいどのように見ているのだろう。
「Uインターの社長となり、スポーツ番組のキャスターを務めていた頃も、酒の席ではくだけた姿を見せることがありました。でも、やっぱりどこか近寄りがたい雰囲気があった。いい意味でスター意識が強かったように思います」(プロレス専門誌記者)
夜の街で巨人の斎藤雅樹や極真空手の緑健児と揉めたとされるのも当時のことで、真偽はともかく、そのような噂が立つほど気位が高かったことには違いない。
とはいえ髙田本人とファンとのイメージギャップは、何もタレント活動以降に限ったことではない。
「そもそもUインターの立ち上げ自体が、ファンからすると違和感をぬぐえないものでした。前身の第二次UWFはあくまでも前田日明がエースの団体であり、次期エース候補とみられていたのは船木優治(誠勝)。髙田はその船木との対戦で結果的に勝ったとはいえ、掌打でKO寸前にまで追い込まれていた。その髙田が“最強”を名乗って新団体を興したところで、すんなりと受け止められないのは当然でしょう」(同)
もっとも“最強”というのは髙田本人が言ったわけではなく、同団体のブレーンだった宮戸優光によるフレーズである。
アントニオ猪木とビル・ロビンソンの試合に感銘を受けて業界入りした宮戸は、かつて新日本プロレスが掲げた“プロレスこそ最強の格闘技”という路線を目指していた。
Uインターがロビンソンやルー・テーズ、ダニー・ホッジを最高顧問として迎え、第二次UWFが崇め奉ったカール・ゴッチから宗旨替えしたことは、進化したプロレスを期待したファンには意外だったかもしれないが、原点回帰を目指す宮戸にしてみれば決して不自然なことではなかった。
「しかし、それは今になって分かること。プロレスマニアともいえる宮戸の考えは先を行きすぎていて、当時のファンやマスコミ関係者で理解する者はほとんどいなかった。これは団体の長であった髙田も同様ではなかったか」(同)
それでも髙田は、宮戸の方針に従い“最強”の看板を背負って闘い続けた。
「当時の髙田に、確固たる自分の考えがあったのかは疑問です。Uインター自体が周囲の要請から立ち上げられた団体でしたし、'95年の参院選出馬も落選したらそれっきり。新日との対抗戦にしても、団体の借金問題があったからやっただけでしょう」(同)
PRIDEにおけるヒクソン・グレイシー戦も、安生洋二の“道場破り返り討ち事件”があったとはいえ、実際は髙田のあずかり知らぬところで起きたもの。それが因縁となっての対戦というよりは、やはりUインター時代の借金に起因するところが大きかった。
★周囲に流された不可思議な行動
「'01年頃、髙田がアマレスのグレコローマンスタイルで'04年のアテネ五輪出場を目指すという話がありましたが、これなどは、髙田がいかに周囲の意見に影響されやすいかを象徴しています」(格闘技関係者)
実は髙田と試合や練習などで対戦した相手が口をそろえるのは、その“上半身の強さ”であった。スパーリングでも、技術以前に腕力で抑え込まれてしまうのだという。
「上半身が強いのなら、下半身への攻撃がないグレコはピッタリ」
「日本人選手層の薄い重量級なら代表も狙える」
「髙田道場でキッズレスリングを教えている以上、道場主の髙田もアマレスを経験したほうがいい」
そんな声に後押しされて五輪挑戦の話が飛び出したわけだが、すでに38歳の髙田がそれまで経験のないアマレスで成功するなど、普通に考えて無理筋なのは明らかだろう。
むろんすぐに立ち消えとなったが、そんな話に軽々と乗ってしまうのが髙田の本質ではなかったか。そのように考えたとき、一連の不可思議な行動にも合点がいくのだ。
ハッスルで“髙田総統”に扮し、コント仕立ての幕間の芝居に臨んだのも、PRIDE参戦中に佐々木健介戦のオファーを受け(新日の神宮球場大会)、後に撤回したのも、忌み嫌っていた田村潔司を引退試合の相手に選んだのも、すべて周囲の意見に乗っかっての行動だったわけである。
しかし、神輿として担がれるのは、それにふさわしい力量やルックスがあってのことに違いなく、平気でその役割を引き受けるのも一種の才能と言えまいか。
髙田延彦
***************************************
PROFILE●1962年4月12日生まれ。神奈川県横浜市出身。
身長183㎝、体重100㎏。得意技/ハイキック、腕ひしぎ逆十字固め、脇固め。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)