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赤井英和インタビュー 浪速のロッキー挫折からの復活劇(1)

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提供:週刊実話

 −−ボクシングを始めたのは15歳の時ですよね。
 「高校のクラブで始めて、いつしか五輪を目指すまでいったんですが、当時、東西冷戦の煽りで日本がモスクワ五輪をボイコットしたことで道を断たれてしまったんです。まず、これが私の人生での1回目の挫折。その後、プロに転向したんですが、恩師の先生から紹介されたのが大阪のちっちゃなジムだったんです。日曜大工で作ったような四畳半ぐらいのリングで『そっちの壁もたれたらあかんで、隣に病気のおばちゃん寝てるから』なんて言われるくらいで(笑)。
 ジムの会長もジムだけでは生活していけなくて、タクシーの運転手もやっていました。そこから世界タイトル狙っていこうとしたら、周りからは選手もいない、後援会もない、そんなないない尽くしのジムで世界戦なんて無理じゃと、笑われたんです」

 −−まるで『あしたのジョー』のようですね。
 「いや、あれよりもっとボロいぐらい(笑)。でも会長も、私が五輪目指してたほどなんだから絶対いける、何とかマッチメイクするって言うて、2人で世界戦目指して頑張った。そこからKO勝利で連勝していったんです。それが話題になって、8戦目から毎回テレビでオンエアされて、15戦目が世界タイトルでした。リングサイドには母校の近畿大学の先生や同級生など大勢来てくれて、その時は99.9%と思うくらい、自分の応援でいっぱいでした。結局、7ラウンドKO負けしてしまったけど、逆に負けて自信をつけたんです」

 −−というのは?
 「6ラウンドまで攻めてたし、世界チャンピオンと自分は差がないなと。世界はこういうもんやと、手応えを感じたからです」

 そこで赤井は、1冊の古いスクラップブックを見せてくれた。母親が、新聞記事をすべてスクラップしてくれていたという。それには赤井の記事が、大きいものから小さいものまで、きれいに時系列でスクラップしてあった。それを見ればたどって来たボクシングでの活躍が一目瞭然で、何冊もあるのだという。赤井にとっての宝物の一つだ。
 「小さかったジムもだんだん大きくなって、ビルにまでなっていったんです。ところが、私の知らない所で大きなお金が動いていた。だけど、自分へのファイトマネーは変わらずチケットのみ。3000円のチケット3000枚渡されて、これがファイトマネーだって言われて。当時はチケットの印刷代なんて大してかかってないんです。何だか気持ちが悪くなってやる気がなくなってしまい、引退します、言うて九州の先輩のところへ遊びに行った。そしたら、突然の失踪と大騒ぎになっていた」

 −−スクラップの中にも、その時の記事がありますね。
 「そしたらお世話になっている後援会長に、大勢の応援してくれる人もいるんだし、世界タイトル戦もあるんだから、まだ引退はするなと説得され、1985年の2月5日に大和田(正春)戦に挑んだんです」

 しかし、第7ラウンドKO負けを喫したこの試合で、赤井は生死を彷徨う大けがを負い、引退を余儀なくされてしまった。
 「やる気がなかった試合だからそんな結果になって、大怪我して、死にそうになって、何もかもなくなって、その当時の嫁も実家に帰ってしまい、一気に大ピンチに陥りました。だけど31年経った今思えば、それがチャンスだったんだと思います」

 −−そこからどう立ち直ったのでしょう。
 「何もかもなくなって、実家でスネかじりに逆戻りしてた。そんな時、母校の近畿大学のボクシング部からコーチのお話を頂きました。昼はボクシングコーチで充実していたけど、その後の時間は何もすることがない。目的がなくなってしまったんです。夜は酒ばっかり呑んでました。それでもコーチをした3年間に2回、日本一になって、学生たちと嬉し涙を流しました。その時の後輩たちとはいまだに交流があります。当時、お世話になった名コーチのエディ・タウンゼントが『愛情の一方通行はあり得ない。与えて増え続けるのが唯一愛情である』と言っていたんです。その言葉を実感しました」

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