最近は聞かれなくなったが、アブラの乗り切ったときの異名はドンドンイケイケのタイプだったことから「ドン亀」。亀井静香は、誤解も多く損もまた少なくなかった政治家である。かのハマコーこと浜田幸一が珍しく「さん」付けで呼ぶほどの男。政局が絡むと人一倍元気が出る一見コワモテ、しかし遠目には「タカ」に見えても近寄ってみると「ハト」で、人権派にして義理人情に厚かった。ために、政界では一方で「亀ちゃん」と慕われ、敵が意外と少ないというのが「ドン亀」の“特性”だ。
亀井はキャバレーのボーイや写真現像所での夜勤など苦学をしながら東大経済学部を卒業。1年間だけ民間会社に入ったが一念発起で会社を辞めて東大に再び学士入学する。猛勉の結果、国家公務員上級試験にパスして通産省を受けたが、「アンタはたった1年で会社を辞めている。そんな男はうちにはいらない」とハネられて警察庁に入った。
警察庁には15年いたが、その間「連合赤軍事件」での“浅間山荘攻防戦”の指揮を執った。長官官房調査官ポストを最後に退官し、昭和54年の総選挙に出馬、政界に躍り出た。
亀井はかつて、筆者にこう語っていたことがある。
「中学、高校のころは“左”の考えだった。組合の委員長になりたいと思ったこともある。警察庁を辞めたのも、やがて年を重ね、部下の支えでメシを食っていくというのは潔くないと思ったから。もっと情熱ある人生を生きたい、弱者の味方になりたい。だから政治家になったのです」
それが、表題の政治姿勢としての言葉になっている。
なるほど、亀井の政治姿勢、手法を見ていると、座右の銘「至誠一貫」の通り、筋が通らぬとなれば“情熱”で突っ走る側面が多々あった。小沢一郎(現「生活の党」代表)が公明党などを糾合、政権奪取を窺った新進党に「公明党は創価学会との政教分離がキチッとしていない」「(新進党は)ファショ的体質だ」とこれに対抗、当時、社会党の村山富市委員長を担ぎ上げて「自社さ」3党連立政権を後押しした。
3党政権で村山のあと自民党の橋本龍太郎が首相になり、施政方針演説で橋本が公明党に遠慮して「政治と宗教」に一切触れなかったことに「官房長官を呼べ」と激怒。当時の梶山静六官房長官、あるいは演説内容のすり合わせを怠った加藤紘一自民党幹事長を突き上げたりもした。
そのほかにも、運輸大臣時代に、当時、笹川良一の影響力が極めて強かった日本船舶振興会の人事に大臣としてノーを出すなどで、長い間、歴代運輸大臣が尻込みしていた振興会の数々の懸案に“風穴”を開けて見せる一方、自民党の強力な選挙マシンの全国建設業協会が新進党へ肩入れ姿勢を見せるや、「組むならどうぞ。ただし、今後、地獄へ行くのは皆さんということになる」と言い放った。まさに表題の「汚れ役いとわず」「矢弾を一身に受ける弁慶」ぶりを実践したのだった。さらには、既得議員がシブイ顔をする中、世襲が有利で在野の優秀な人材の道を塞ぐ「小選挙区制反対」への舌鋒を鈍らすこともなかった。亀井をよく知る政治部記者は言っていた。
「亀井は警察庁出身だけに多く集まる情報に頼ってしまうところがある。ために、根回し不足が少なからず付いて回った。運輸相、建設相、金融担当相、自民党政調会長などの要職を経たものの、小泉純一郎の総裁選の対抗馬に出て惨敗したのもこのあたりが衆を集められなかった原因とみられる」
素顔の亀井は、愛嬌に満ちている。「音痴で永田町一ヘタ」と“評判”の唯一の持ち歌『兄弟仁義』を、マイク片手に座敷の金屏風の前、支持者の前などで、“堂々と”歌って(ガナッて)みせるのだ。皆、苦笑しながらもヤンヤの喝采、この愛嬌がまた「亀井人気」を支えた。10年前の総選挙でホリエモン(堀江貴文)の“急襲”を受けたもののこれを一蹴したが、こうした支援者に支えられたことは言うまでもない。
その人の情熱は、誰かが知る。19世紀後半から20世紀前半にかけて世界的な社会思想に多大な影響を与えた英国のマックス・ウェーバーは、「政治は情熱である」と力説した。政治に限らず人間の行動原理への評価は、まず情熱にありと知りたい。情熱がまた、自信を生むということでもある。
亀井はそんなことを教えているようでもある。ちなみに、亀井が尊敬するのは南米社会の矛盾克服のためキューバで反政府活動を展開、やがて命を落とすことになる“情熱の人”チェ・ゲバラである。=敬称略=
■亀井静香=警察庁出身。衆議院議員(13期)。運輸大臣(第69代)、建設大臣(第64代)、自由民主党政務調査会長(第43代)、国民新党代表(第2代)、内閣府特命担当大臣(金融担当)などを歴任。現在は無所属。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。