昭和42(1967)年には当時、開発されたばかりの新技術であるMOS(金属酸化膜半導体)型ICを使用し、世界で初めて蛍光表示管を採用した電卓を発売。重さは1号機の6分の1、価格23万円。さらに小型、軽量化を図るために早川電機工業はLSI(大規模集積回路)が必要だと考え、自社でLSI生産に乗り出す。
昭和44(1969)年、アポロ11号で人類が初めて月面に降り立った年、そのアポロ計画の推進役であったノースアメリカン・ロックウェル社と技術提携し、やはり世界初のLSI電卓の開発に成功した。さらにELSI(多相大規模集積回路)の量産工場を開設するため、再びノースアメリカン・ロックウェル社と技術提携した。
そして翌昭和45(1970)年に開催される大阪・千里丘陵での万国博覧会には参加せず、奈良・天理にELSI工場を含む総合開発センターを建設すると発表すると、世間では“千里から天理へ”と大きな話題になった。ESLI開発・製造について、徳次は自分の生涯をかけた天職として、こんな素晴らしい、やり甲斐のある仕事はないと述べている。
昭和45(1970)年1月1日、早川電機工業は、社名をシャープ株式会社に変更した。将来のエレクトロニクスの発展を考えて電機の言葉をはずしたのだ。同年9月15日、資本金50円で創業して以来、58年にわたって社業を統括してきた徳次は、当時53歳の佐伯旭を社長にし、自らは会長になった。満で76歳。盲目の井上さんに手を引かれて芳松の所に丁稚奉公に出た日から69年、9月15日は徳次にとってずっと特別な日だった。
晩年、著書「私の考え方」の中で心境を次のように語っている。
“今日一日憂いなく仕事が出来たということでよく眠れる。眠るのが楽しい。眠るのが楽しいと、起きるのがまた楽しいのである。近来、私の気持ちをいうと、こんな風で、非常に気分がいいのである。(略)気分がいいということは自分で自分の心をコントロールする、もの事に対して誠意をもって努力して行く。自然とそこにでてくるのが喜びの感情ではなかろうかと思っている。(略)さざ浪は水の表面にこそ立つものの水中の中心では動きがないという。仏教の教えではこのことを「本来心」なる言葉で言い表している。「本来心」をいつもいい気分の中に持していられる私は何たる幸せものであろうと感謝で一ぱいである”
波乱に満ちた人生を送ってきた徳次が辿り着いた心境だ。家族によく「至誠天に通ず」という意味のことを口癖のように語っていた徳次。誠を貫いた人生を送った人間であったからこそ訪れた平安の境地であろうと想像するのである。(おわり)