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クビの翌年に優勝チームのレギュラーに トライアウトを経て唯一キャリアハイを挙げた男・宮地克彦(2)

 当時、宮地が発した言葉の1つに、「王貞治監督、新井宏昌コーチの指導は新鮮だった」というものがある。微調整ながら、打撃フォームの改造を勧められたのだ。
 「新しいことを進んで取り入れる姿勢は大事です。でも、1年や2年で習得できるほど甘いもんじゃない。そのことも分かっていました。でも、この世界で10年以上やって来て、結果が出ていない。やってきたことは正しいのか、いつかできると信じているだけでいいのかと自分に問い掛けました。ホークスに行き、『打撃フォームを変えない』という選択もできたんです。変える勇気がないのか、プライドが邪魔をしているのかとも考えて…」

 宮地の出した結論は冒険だった。
 これまで積み重ねてきたスタイルを捨てるのだから、微調整でも大冒険だった。チームを変わったのに、今変えなければ、永遠に変わることができない。キャンプ、オープン戦で結果を出すことはできなかった。開幕は二軍で迎えた。「チャンスは絶対にある」と、二軍首脳陣も励ましてくれた。開幕から約3週間が経過した4月13日、一軍昇格の知らせが入った。そして6月に入って、宮地の打率は急カーブを描き、月間打率は3割9分6厘に上がった。ついに、外野のスターティングメンバーの座を勝ち取った。
 「新しい打撃フォームのVTRを見るじゃないですか。不思議なもんで新フォームを習得できたと思ったら、だんだん昔のフォームに似てくるんですよ(笑)。変わったのは打撃フォームではなく、精神面なんでしょうね」

 これまではヒットが1本出ると安心し、気持ちが守りに入っていた。しかし、いまは違う。1日に3本でも4本でもヒットを打ってやる。オレが首位打者のタイトルを獲ってもいいじゃないか…。気持ちに攻めが出た。
 また、当時の宮地は2ストライクと追い込まれても3割強の高打率を残していた。野球アナリストのデータによれば、2ストライク以降のカウントから打って、3割以上の数値を残したのは、宮地1人だけである。
 「全てを失いましたからね。ここで打てなくても給料が出ないわけではないし、こっちは、一度生活の糧を失ったわけですからね。『あしたからどうしよう』って思いもした。それに比べたら、怖いものなんかない」

 同年、宮地は西武時代には果たせなかった打率3割(3割1分0厘)を残し、プレーオフでもスタメンに名を連ねた。翌05年には初の規定打席数に到達し、リーグ5位の打率3割1分1厘をマークする。
 トライアウトを経験して、初めて前球団時代の成績を超えた選手の誕生だった。
 「古巣を見返す」なんて、つまらない次元の話ではない。自分自身を変えたのである。

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