第2次池田改造内閣の組閣にあたって、その骨格づくりを任された池田勇人首相側近の大平正芳は、しかし「田中蔵相」案に反対の池田に、こう食いさがった。
「たしかに田中は年齢も若く、いろいろと言う向きもありますが、経済、財政政策に対する能力は相当なものがあります。もし、どうしても田中蔵相がダメだとおっしゃられるなら、自分は入閣を見送りたいと思います。なんとか、田中の蔵相をお認めいただきたい」
大蔵省以来の部下、側近としてかわいがってきた大平にそこまで言われては、もはやこの人事案を呑むしかなく、池田は不安半分の中で「田中蔵相」を認めた。
大平は大平で、任された人事をいいことに、自ら外務大臣ポストを選び、内政と外交、田中と自分の二人でこれからの自民党の政治は、自分たちが責任を持ってやっていこうという気持ちを高ぶらせたのだった。
やがて田中が、そのあと大平が、自民党総裁選を勝ち抜いて首相の座に就く折りには、「盟友」としてそれぞれの派閥が全力投球で支援態勢を敷くことになるのだが、二人の「盟友」関係は、このときの人事案の一件が出発点となっている。
ちなみに、この「田中蔵相」が実現したもう一つの裏面は、吉田茂元首相の左大臣、右大臣格と言われた、池田と佐藤栄作の関係があった。池田が「宏池会」という派閥を発足させて先に首相になったとき、佐藤もまた「次」をうかがって佐藤派「周山会」を結成した。田中は佐藤派入りして、若くして派閥の“台所”、すなわち資金面を担う家老的存在となった。
その親分の佐藤に、第2次岸信介内閣で蔵相として入閣話が出た際、時の一方の実力者・大野伴睦がこれに反対した。これに業を煮やした田中は単身で大野のもとに乗り込み、「佐藤蔵相を呑めないなら、あなたの副総裁も消すしかない」と迫り、ついには「佐藤蔵相」を実現させることに成功したのである。
すなわち、佐藤にとっては田中に大きな“借り”があり、これを返すため佐藤が側面から、池田に「田中蔵相」の実現を強く働きかけたということだった。
さて、田中の国家予算を握る大蔵大臣就任は、やがて政界の頂点を目指す挑戦への、大きな起点となった。この池田内閣での蔵相のあと、政権が佐藤に移った際、自民党幹事長ポストに就いて党を掌握したことで、田中は一気に階段を駆け上がっていくことになるのである。
しかし、田中にとって挑戦の起点となる蔵相ポストは、なんとも険しいところであった。大蔵省は、優秀な官僚の集まる霞が関の中でも、エリート中のエリートぞろい、他の官庁とは別格の「官庁中の官庁」として知られている。
大蔵官僚は当然プライドが高く、例えば、大蔵省では相手の出身大学を聞くことはない。東大、それも法学部卒業に決まっているからだ。入省年次と、出身高校だけを聞くのが“常識”である。尋常高等小学校卒業の田中は、いくらそれまで「腕力のある政治家」として伝わっていても、ここ大蔵省では“排除”の対象となるのが必至ということだった。
しかし、田中はとんでもなく明晰な頭脳、誰もがうなる人心掌握術の妙、度胸のよさ、そして必ず夜中の2時には目覚まし時計で起き、布団の中で六法全書をめくり、大蔵省関係資料を頭に叩き込むといった猛勉強で、エリート秀才たちと向かい合ったのだった。
★大蔵省“手中”のカネ
大蔵省登庁第1日目、大臣就任後初めて幹部を前にして、自ら尋常高等小学校卒業を口にしたうえで「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う!」とした挨拶は、政治家の演説史上でも特筆される名言として残っているが、なるほど以後、抜群の政治的能力を発揮して大蔵省幹部たちを取り込んでいった。
プライドの高い秀才たちの話を聞く一方、最後は自ら決断を下す。例えば、経済最大の懸案だった「資本取引の自由化」などの政策が、落としどころとして大蔵官僚たちが満足する格好になったことで、幹部からは「天才大臣」の声さえ出たものだった。
しかし、田中にとっては大蔵省を“手中”とするには、もう一つ何かが足りないとの思いがあった。本当にオレの仲間なのか、との疑心が付いて回ったのである。そのために使ったのが、カネということだった。
それまでの大蔵大臣は、幹部への中元、歳暮は夫人用の浴衣地かハムなどの詰め合わせ程度のものであった。田中はそれを一変させ、現物以外に“現ナマ”をつけたのだった。事務次官、局長、局次長あたりまでは100万円から数十万円を、ポケットマネーから出した。例えば、昭和30年代後半あたりの100万円は、今日ならおよそ450万円に相当するというべらぼうなものである。
昭和39(1964)年11月、池田首相はガンとの闘いのさなか、東京五輪の灯が消えるのを待つかたちで内閣を総辞職した。後継は佐藤となった。田中はその佐藤内閣で大蔵大臣留任、その半年後、第1次改造内閣で蔵相を辞任、自民党幹事長のイスに座る。
吉田茂、池田勇人、佐藤栄作という「保守本流」のバトンを引き継ぐ者として、田中角栄には自ら目指す頂きが確実に視野に入ってきたということだった。
(本文中敬称略)
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【著者】=早大卒。永田町取材49年のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『愛蔵版 角栄一代』(セブン&アイ出版)、『高度経済成長に挑んだ男たち』(ビジネス社)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。