選挙前まで第1次内閣を組織していた吉田は下野、翌23年3月、連立内のゴタゴタで片山内閣はわずか9カ月足らず、次の芦田内閣も、今度は「昭電疑獄」の表面化で7カ月で総辞職を余儀なくされてしまった。
ちなみに、この昭電疑獄では後に「角福戦争」として天下を争うことになる、当時、大蔵省主計局長の福田赳夫が連座疑惑を受けて大蔵省退官、やがて政界へ転身することになるのである。
さて、この芦田内閣総辞職をもって政権は再び吉田に舞い込み、吉田が第2次内閣を組織、その吉田のメガネにかなった田中が1年生議員ながら法務政務次官に抜擢されたということだった。そしての早々の「炭管疑獄」逮捕となるのであった。
この炭管疑獄は、社会党の片山首相が社会主義政策の具現として英国の労働党に学んでの石炭産業の国有化を目指し、俗に「炭管」法案と呼ばれた臨時石炭鉱業管理法案を国会に提出したことに始まる。国会はもとより、世論も二分した対決法案であった。法案では第2次大戦中にそれまでの17%まで低下したわが国の石炭生産を、国家が管理することで必要需要量として250万トンくらいまでの増産を図ろうというものであった。
その気迫と行動力から早くも国会内で「チョビひげ野郎」の異名をもらっていた田中は、ここでも論戦の先頭に立ったのだった。委員会審議では「石炭を国家管理にすることは黒い石炭を赤くすることだッ」と追及、ガマンがならなかったことから議場の机の間を泳いで賛成議員の席に詰め寄り、胸ぐらをつかむなどの“行動力”を示したものである。
結果的には、この法案は大骨小骨を抜かれた形で可決、成立した。田中は所属する民主党が賛成に回ったことから同党の一部反対議員と共に脱党、同志クラブを結成、吉田率いる民主自由党に合流して法務政務次官のポストに就いたというのが背景になっている。
ところが、法務政務次官就任1カ月も経たぬうち、突然、田中に対し「炭管」法案をつぶすため炭鉱業者が集めた反対運動資金5000万円のうち九州の某業者から100万円の小切手を受け取ったとしての収賄容疑と、さらにそのカネを政党関係者に配ったとの贈賄容疑で、田中の自宅と社長を務める田中土建工業本社に東京高検特捜部の家宅捜索が入ったのであった。
家宅捜索が入った直後の記者会見の席で、田中は「無実」をこうブチ上げている。強気、一歩も引かぬ“正当性”の主張は何やらやがてのロッキード事件でのそれをホーフツさせるのである。
「私の会社は福岡と佐賀、そして(東北の)常磐地区に出張所を持っておるから、確かに土建業者として炭鉱業者との業務上の関係はある。しかしだッ、ウワサされておるように炭管モミ消しのために業者から不正のカネを受け取ったことは断じてなく、むろん関係者に贈賄したこともない。今度の家宅捜索は、あくまで会社の業務上の帳簿調べにすぎないのであります。ために、なぜ私は政務次官を辞めなきゃならんのかッ。辞めることなど、毛頭考えてはおらんのであります。
まァそのォ、高検の捜査に関して法務政務次官の私はナニも知らなかったワケだが、捜査当局の本来の在り方としてはこれは敬意を払っていますよ。
もっとも、うちでは炭鉱業者の住宅や坑道のレール敷設などの工事をやっておるため、九州の炭鉱業者からまだ1500万円くらいの取り立て分があるはずで、その関係上から若干のカネは入っているかも知れん。しかし、これらはいずれも取引関係のことで、本社とも別会社のことだし、東京の本社にはビタ一文も入っておらんですよ。ましてや、炭管反対のためのカネでは全くないのであります!」
しかし、この強気の弁から約1カ月後の昭和23年12月15日、東京高検特捜部は田中を収賄容疑で逮捕、身柄を小菅の東京拘置所に拘置してしまった。田中はこのときの検事の取り調べに対しても強気一辺倒でひるむことなく、こう言って胸を張った。
「これは政治的謀略だ。検事総長を告訴するから筆とスズリを持って来いッ」
時に、田中が現職代議士であったため、東京地裁から逮捕許諾請求が出された。これを衆議院が決議、しかし不満の野党が対抗して内閣不信任案を提出、可決してしまったことで吉田首相は衆院の解散・総選挙を選択、決断することとなった。
「小菅」の独房にいた田中は、カン然と「獄中立候補」の声を挙げた。田中のアブラ汗、シャカリキの選挙戦が始まることになるのである。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。