「店に行くと“あの人”の顔がズラーッと並んでてさあ。それ見ると『この野郎!』って熱くなっちゃうんだよ」
大仁田厚が取材記者に対し、そんなふうにこぼしたことがあったという。パチンコ、パチスロ店にアントニオ猪木をモチーフとした機種が、多数設置されていた頃のことだった。
大仁田が猪木戦を口にしたのは2000年の前後からだが、実はそれ以前から水面下での交渉が持たれていた。
'94年に二度目の引退を表明した大仁田が、新日に猪木戦を要求すると、翌年1・4東京ドームの目玉カードとしてこれが内定。対戦に向けてのアングル作りで、東京スポーツにあおり記事が掲載されたりもした。
「猪木自身も対戦にOKを出したものの、最終的に頓挫したのは大仁田がバーターで猪木のFMW参戦を強く要求したからだと聞いています。新日にしてみれば『猪木と対戦できるだけでもありがたく思え!』ということだったようです」(スポーツ紙記者)
その後、大仁田は引退となるも1年後に復帰。しかし、大仁田不在の間にFMWを支えたメンバーからの反発に加え、ディレクTVからの放映権料(年1億円、3年契約)が期待できたこともあり、大仁田は不要と見なされ、'98年11月に団体追放の憂き目に合う。そこで再度持ち上がったのが、新日参戦計画だった。
新日としても同年4月に猪木の引退興行を終え、次の目玉を探していたところで、以前の決裂などなかったかのように話は進展したという。'99年の1・4東京ドームでの佐々木健介戦に始まり、蝶野正洋戦、グレート・ムタ戦では大仁田がグレータ・ニタに扮し、神宮球場大会のメーンを担うまでになった。
だが、ここで横槍が入る。
「引退後、世界格闘技連盟UFOを設立した猪木は、エースの小川直也を新日でも主軸にしたかった。そんな猪木にとって“邪道”大仁田は目障りだったのです」(新日関係者)
一度対戦が決まりながら、決裂したことへの不信感もあったのか…。
「大仁田の新日参戦が決まった当初から、猪木は『あいつの毒は一度飲んだら消せないぞ』と反対の姿勢でした。自分ならともかく、他の選手では大仁田に食われてしまうと危惧していたのです」(同)
そのため大仁田はいったん新日リングを離れるが、それに不服を唱えたのがテレビ朝日だった。同局の『ワールドプロレスリング中継』での“大仁田劇場”が人気を博していたことから、その継続を望んだのだ。
さらに、新たな事情も絡んでくる。大仁田参戦の1年前、'98年の1・4東京ドームで引退し、現場監督に専念していた長州力の復帰問題である。
「大仁田は参戦時から『狙うは長州の首ひとつ!』と言ったものの、その時点で長州はまだ復帰には否定的でした。ただ、もともと“自分も引退するから猪木さんも”というのが引退の主目的だったわけで、再度、新日を牛耳ろうとする猪木への反発が復帰を決意させたようです」(同)
両者の利益が一致したことで、話はトントン拍子で進み始める。
「またぐなよ!」(道場に電流爆破マッチ直訴の手紙を持ってきた大仁田に対し、リングに近寄るなという意からの長州のセリフ)の名言が飛び出すなど、大仁田劇場も絶好調。大仁田とテレ朝・真鍋由アナの関係が、敵対から同志へと深化していく感動ストーリーも生み出された。
そうして'00年7月30日、ついに長州と大仁田が電流爆破マッチで相まみえる。
メーン以外は闘魂三銃士も外国人も参戦しない、もちろん猪木も来場しない。長州派の選手だけの大会ながら、会場の横浜アリーナは超満員。プロレスでは初となるPPVも実施された。
同年5月にはPRIDEが東京ドームでの初のグランプリ大会を成功裏に終え、また、8月5日には全日本プロレスから独立した三沢光晴らによるプロレスリング・ノアの旗揚げが予定される中にあって、長州と大仁田それぞれの存在感を見せつけるかたちとなった。
『ワイルドシング』の流れる中、観客をあおりながらゆっくりと入場する大仁田。続いて『パワーホール』が鳴り響くと、会場全体から大歓声が沸き上がる。
入場する長州の腕には、この直前に試合中の事故で亡くなった福田雅一選手の遺影があった。
「長州の肝いりで入団させた福田への想いは当然ありながら、復帰に否定的なファンがブーイングしづらくする意図もあったのでは」(プロレスライター)
試合は計5回の被弾で血まみれになった大仁田に、サソリ固めを決めた長州のTKO勝ち。長州は一度自ら有刺鉄線の反動を利用してラリアットを放つも爆破はなく、勝敗では一方的となったが、それでも水と油に思われた両者が、それぞれ持ち味を発揮した好勝負であった。