その野中の「ケンカ史」を辿ってみると、作法、手法にいくつかの「達人」としてのポイントが発見できる。
最大の特徴は、表記の言葉にあるように格下、弱い者とはやらず、常にケンカ相手は格上、強敵であることだった。格下、弱い者に勝っても周囲の拍手はなく、むしろ冷笑を浴びせられることを熟知していたことにほかならない。と同時に、政治家として頭角を現すための点数にはならない、むしろマイナスになることも熟知していたということである。
そのうえで、特徴的だったのはケンカをする頃合いすなわち「潮目」を読み切るということだった。そして、落とし所に落としたあとは絶対にその約束を守る、相手を裏切ることがなかったのである。
なるほど、その「ケンカ史」を辿ってみると、相手は常に格上、強敵であった。
まだ代議士になる前の京都府議、京都府副知事時代には、当時、都合7期28年の長きにわたって府政を牛耳っていた共産党の蜷川虎三知事と孤軍対決、ついに共産党府政にピリオドを打たせてしまった。また、代議士になるや当時「NHKのドン」の名をほしいままに専横ぶりを示した島桂次会長を失脚に追い込んだ。さらには、自民党から政権を奪った非自民政権の細川護熙首相の「政治とカネ」を徹底追及、ついには細川政権を崩壊に追い込み、自民党政権奪回の立て役者にもなっている。
同時に、当時の社会党の村山富市委員長を口説きに口説き、首相に担ぎ上げるという大胆不敵な奇策で自民、社会、新党さきがけ3党による「自社さ」政権を誕生させ、その1年後に橋本龍太郎首相による自民党政権を実現させたということだった。
そしての白眉が、その後、衆院はやっと過半数、参院は過半数割れで自民党が苦境にあった時の、当時、自民党を離れ自由党を率いていた小沢一郎(現・生活の党と山本太郎となかまたち代表)を引っ張り込んで「自自」連立政権を誕生させ、政局を安定させた。野中は小沢の政治姿勢を終始、忌み嫌い、対立を繰り返していたのだが、一転して手を握るという挙に出た。当時の関係者の証言がある。
「野中は時に天下国家の在り方、大義、正義を語り一方で徹底して“下から目線”で小沢を口説いた。緩急自在とは、まさに野中の手法のためにあるようだった。連立政権ができたあと、野中は言っていた。『オレは無欲で“悪魔”と手を組んだ。天下国家のための大芝居だった』と」
ここで読者にとってのケンカ作法のもう一つの要諦は、「無欲」で事にあたれということである。野中自身が言っている。
「いつもポスト、肩書に執着することなく、論功行賞など頭になく無欲で事の打開に臨んでいる。無欲だから、失うものがない。縦横に“ケンカ”ができるということだ。欲があるから好きなこと、正しいことが言えなくなるのだ」
しかし、欲はなくても人は見ている。自ら求めなくても、デキる男には必ず白矢が立つのである。橋本首相のあとの小渕首相から、「オレを助けてくれ」と官房長官就任を強く要請された。ポストに執着のない野中は「器にあらず」と固辞したが、野中の親分格だった竹下登元首相の「天命だ。受けてやれ」の説得をシブシブ受け入れたといった具合だった。
読者も時に、上司とどうしても議論しなければならないことがある。何が大事か。
この“ケンカ”の頃合い、「潮目」を間違えてはいけない。相手の機嫌のいい時にやれ、悪い時にやっても勝ち目はない。そして、部下であるから目線はあくまで下から、無欲で向き合うことだ。どんな正論と思っても大上段、上から目線は厳禁だ。上司は甘くない。この「野中流」でいけば、ややあって上司が自分の非、あなたの正論を思い出した時、「アイツがいたな」で同僚を出し抜いての頭角、抜擢が待っているはずだ。
■野中広務=京都府船井郡園部町長、京都府副知事、衆議院議員(7期)、自治大臣(第48代)、国家公安委員会委員長(第56代)、内閣官房長官(第63代)、沖縄開発庁長官(第38代)、自由民主党幹事長などを歴任。
小林吉弥(こばやしきちや)
永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。