2005年の夏、千葉県館山市の海岸で、散歩中の老人が1枚の小判を拾った。時価20万円相当の元文小判で、近くに江戸時代の船が沈んでいるのは古記録が残っていることからも間違いなく、もっと多くの小判が見つかってもおかしくはない。
ふつうこういうことが起きると、うわさが広まり、どっと人が押し寄せてきて残りを取り尽くす。1961年に山形県の最上川中流で小判が見つかったときも、1964年に東京都江東区有明の埋め立て地で小判が掘り出されたときも、人がひしめき合った。
ところが、館山の場合はそんな騒ぎがまったく起きなかったという。発見直後は話題にならず、小判が発見者のものになった1年後に、NHKのローカルニュースで地味に報道されただけだったからだ。ならば、まだ望みはある。1枚だけが沈没船から離脱して、波打ち際にたどり着いたわけではあるまい。
実はこの話、4月に始まったTBSテレビの新番組『アイ・アム・冒険少年』のスタッフから聞かされたもので、筆者は「そういういきさつであれば、小判はもっとあるはずだから、金属探知機を使って調べてみようよ」と、腰を上げたのだった。
現場の塩見海岸は、房総半島突端の東京湾の方に向かってかぎ爪のようにせり出した部分にあり、昔から漂着物の多いところとして知られる。雑多な漂着物の中からきれいな貝殻や流木などを探す“ビーチコーミング”が盛んなところで、実は小判を拾った老人も、縁起物として珍重される「布袋石」と呼ばれるイルカの耳骨の化石探しを目的に砂浜を歩いていたのだという。
さて、4月中旬、タレント数名と一緒に丸一日かけて小判探しをやり、その模様は5月7日の同番組で放送された。探知機は反応しまくったが、結局出てきたものはガラクタばかり。しかし、未発見の小判が眠っている可能性は大で、この場所はトレジャーハンティングのサイトとして非常におもしろい。
アメリカのフロリダ半島東海岸では、休日となると金属探知機を手に大勢のトレジャーハンターが訪れるが、房総は日本のフロリダになるかもしれない。
埼玉県鴻巣市の横田家歴代の墓所の発掘は、相変わらず地下水に行く手を阻まれていて、技術的な問題が残る。浸水さえ止めることができれば、数百枚の慶長大判はすぐにでも顔を出すはずだが…。
今年は本シリーズで取り上げた、旧日本軍の隠匿財宝の調査プロジェクトがいよいよ動き出す。新潟の柏崎と北海道の美幌。どんなものが眠っているのか、興味は尽きない。
もう一つ、ここへ来て急速な進展がみられるものがある。群馬県沼田市在住の埋蔵金研究家・高橋喜久雄氏が長年追い続けているもので、ターゲットは江戸後期の天保年間に、老中水野忠邦が埋蔵させた『大法馬金』と呼ばれる重さ160キロの金塊だ。備蓄用につくられたもので、江戸初期に21個が、その後寛政と天保のころにも鋳造されたが、幕末にはたった1個になり、徳川慶喜が水戸へ持っていった形跡がある。
もし昭和村に埋蔵されているとしたら、それは天保13年(1842年)造のものだろう。水野がそれを上州に埋蔵した理由は、諸外国が日本に接近し始めたので、万が一のことを考え、幕府の上州疎開を視野に入れていたのかもしれない。地元には、水野が日光参拝の途中に、この地に立ち寄ったことを示す史料が残っている。
高橋氏は、そういった文献や各地に残る伝承を調べ上げ、さらにさまざまな物証の整理と再検証を行った。その結果、赤城山麓を中心に残る、幕末の徳川幕府御用金埋蔵伝説と、この天保期の話とが混同されていることに気がついたのである。
物証の一つに、双永寺という寺から見つかったと伝えられる3枚の銅板に彫られた『双永寺秘文』がある。筆者は以前からこれを疑問視し、ねつ造の可能性もあるとみていたのだが、高橋氏は別の場所から見つかったものを、発見者が一時的な保管場所として寺を利用しただけであることを突き止めた。また、従来は地図が赤城山麓津久田原を示すというのが通説だったが、同氏は昭和村の長者久保がこれに該当し、天保期に埋蔵された『大法馬金』のありかを示すものと考えている。地図上に印のついた重要ポイントのすべてが、地上に配置されている神社などと一致するからだ。
今後、筆者も調査プロジェクトに加わる予定で、新展開についてレポートする機会をつくりたいと思っている。(完)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。