畑田美千代(後に石村正利と結婚)は昭和31年11月の後楽園・日本選手権女子で?1の田中和子(奈良)を破り優勝。昭和32年の高松、同年9月の門司全国都道府県選抜を連覇。翌33年の高松宮妃記念杯と女子競輪廃止寸前の昭和39年の高松宮妃記念杯も獲得。歴史に残るレーサーだった。
奥野陽子(旧姓岩井)は20歳から女子の賞金獲得ベスト10に入り32歳までランキング入りした女傑。松本が「昭和32年の女子で年間100万円以上も稼ぐ。男子はもっと収入がいいから経済的にも競輪選手はすごい職業」とプロ入りを決意。小倉から防府へ移り、石川最之学校に入った。
「ヨーロッパから自転車競技関係の書籍を取り寄せるなど、石川さんは研究熱心だった。ほかに宇多村照夫、柳井博、大和孝義が入門。東の小林学校(川崎)、西は石川学校と言われたほど」と松本は述懐している。
20期はスター選手を輩出。吉川多喜夫(神奈川)、早福壽作(新潟)佐藤敏男(愛知)、読売巨人軍から転向した西野忠臣(神奈川)木村賢一(香川)忽那重次郎(愛媛)らが特別競輪の常連になった。