昭和25年に選手登録した吉田は「スポーツ競技だったら、何をやらせてもスターになっただろう」と言われたくらいの身体能力を持っていた。「ミーちゃんはライバルやった。あの人に勝とうという根性がワシの実績を残させてくれた」というのは、同じ時代のライバルで吉田よりも早く「千勝クラブ」入りした石田雄彦だ。
自在タイプの二人は激しく競い合った。高原永伍(神奈川)平間誠記(宮城)が一時代を築く前に競輪ファンを増やし、特別競輪の舞台が開かれた頃にはスタンドを超満員にした。
多くの名勝負が繰り広げられた。昭和33年の後楽園・日本選手権では白井通義(神奈川)の強引な中割りで後輪を潰しながらも優勝を獲ったレースは、オールドファンに語り継がれている。
当時使っていた木リムがグシャリと潰れながらも1着で駆け抜けたスリット写真は、その激闘を物語っている。
日本選手権競輪2回、昭和35年川崎、翌36年名古屋とオールスター競輪、そして38年10月の西武園・全国都道府県選抜競輪も制覇した。高松宮杯と小倉競輪祭は獲れなかったが、競輪祭では昭和28年2着、山地正の優勝に貢献。高松宮杯も4回優参している。
千勝を達成したのは昭和48年8月の甲子園だった。ライバルの石田より1年3か月遅れたが、それには理由があった。実は「木リムの破片が脚にもぐりこんでいて、中年を迎えたころに痛みが出てきた」からだった。