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FMWというと電流爆破などド派手な過激デスマッチばかりで語られがちだが、大仁田厚が「おもちゃ箱をひっくり返したような」と称した草創期も、なかなか味わい深かった。
素人丸出しの女子選手や肩書だけの格闘家、謎の怪奇派レスラーなど、うさん臭い連中も多く、当時のプロレスファンやメディアからの評価は、一度引退している大仁田当人も含めてガラクタ同然であった。
しかし、マニアックなプロレスファンたちは、正統派一色のメジャー団体やスポーツライクなUWFでは飽き足らず、冷やかし半分、まるで見世物小屋へ行くような心持ちで、妖しさに満ちた初期FMWの会場へと足を運んだ。
そんなファンたちのどこか下世話な好奇心に応えるように、FMW側も男女合同興行や異種格闘技でのデスマッチ、格闘家によるバトルロイヤルやタッグリーグ戦など、次々と業界初の試みを展開していった。
また、大仁田自身が堂々と「自分は落ちこぼれで弱い」と言い放ったのも、強さの追求が当然とされてきたプロレス界においては画期的なことであった。
1989年10月、愛知県露橋スポーツセンターでの旗揚げ戦では、大仁田はメインで青柳政司に蹴りまくられてのTKO負け。その試合後には「ファンのみなさん、プロレスを汚してごめんなさい」と涙のマイクパフォーマンスを行っていて、これが後年の大仁田劇場へとつながっていく。
ところが、こうした大仁田の“弱さ”はファンの同情心をくすぐり、それと同時に敵対する相手を実績以上に強大な存在へと格上げすることにもなった。
青柳に続いてライバルとなった栗栖正伸も、そんな一人と言えようか。
相手を半殺しにするまでイスでぶん殴る試合ぶりから、付いたあだ名は“イス大王”。’90年1月7日に開催された「第1回総合格闘技オープントーナメント」(後楽園ホール)なる大会でも、柔道家や空手家、テコンドー、キックの選手らが参加する中、やはり栗栖は相手をイスでバンバン殴りまくって優勝している。
「栗栖に言わせると、まともにプロレスができない相手ばかりだったから、イスで殴るしか試合のつくりようがなかったということですが、ともかく、それが栗栖の代名詞となっていきました」(プロレスライター)
’72年に新日本プロレスでデビューした栗栖は、ジャパンプロレスとともに全日本プロレスへ移籍した後、’88年に引退。これは実際のところ、全日からの厄介払いであった。それが復帰したFMWで覚醒したのは、やはり弱い大仁田のおかげとも言えそうだが、一方で栗栖が本来の持ち味をようやく発揮できたとする見方もある。
「初の海外遠征となったメキシコではルード(悪役)として大活躍し、関係者からも『客を怒らせるツボを知っている』『狂気じみた本物のルード』などの高評価を得ています」(同)
★死力を尽くした橋本戦で男泣き
だが、当時の日本においては“悪役の所属選手”という概念自体がなく、また外国人の大型ヒールがたくさんいた時代に、小柄な栗栖では見栄えがしないとの判断もあっただろう。その才能を披露する舞台には恵まれなかった。
そうして新日、全日においては不遇なレスラー生活をすごした栗栖だが、FMWでの活躍によって古巣の新日から改めて声を掛けられる。
そして栗栖は、後藤達俊やヒロ斎藤、スーパー・ストロング・マシンらのユニットであるブロンド・アウトローズの客分として、アニマル浜口らとともに参戦することとなる。しかし、’90年6月の復帰初戦、両国国技館で待っていたのは満場の観客からの「帰れ!」コールだった。
「当時の新日ファンにはインディーなど認めないという意識があり、大仁田相手にキャラ変更しただけの前座レスラーが、主役級の扱いを受けることへの反発は相当に強かった」(同)
しかし、栗栖はそんな一種の偏見にもめげず、正規軍相手にイスを振るい続け、ヒール道を貫く姿勢は徐々に新日ファンの心境を変化させていく。
同年8月、後楽園ホールでの橋本真也とのシングル戦。敗れた栗栖は右脚ふくらはぎの筋肉断絶、勝った橋本も左手甲を骨折と、互いに重傷を負う壮絶な喧嘩マッチとなったが、その試合中から栗栖への声援が飛び交い始める。
当時25歳の有望株である橋本を相手に、真っ向勝負を挑む栗栖への最大級の賛辞。試合後、敗者へ向けて万雷の拍手が送られると、さすがの栗栖もこれには男泣きするばかりだった。
栗栖正伸
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PROFILE●1946年11月15日生まれ。鹿児島県肝属郡出身。
身長175㎝、体重100㎏。得意技/イス攻撃、栗栖スペシャル。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)