大場氏が、そのときのつらい様子を振り返る。
「私は工作班にいたので武蔵の部品や故障の修理をやっていた。だから魚雷や爆弾でやられたところを修理して浸水を防いだり、注排水して船体のバランスをとるのが仕事だった。もっとも私は指揮所の伝令役だったので上官の指示を船底で作業する仲間に伝えるため上と下を往復していました。船底に閉じ込められたまま20数名の仲間が戦死したのはそのためなんです」
10月24日の空襲は午後3時30分の第五波攻撃で終わった。最期の攻撃では艦橋に直撃弾が命中し、猪口艦長が右腕に重傷を負い、指揮官たち数名は戦死。時間の経過とともに傾斜はいよいよ増し、復原力はもはや残っていなかった。
速力も衰え、遅れをとるばかり。そのため栗田長官は武蔵を本隊から切り離し「最寄りの島に座礁して陸上砲台となれ」と引導を渡すのだった。
しかし、息も絶え絶えの武蔵には自力走行の余力もない。午後6時、猪口艦長に代わって加藤憲吉副長が「総員、上甲板に集合」の指令を発した。
ただちに全乗組員が集まった。しかしすでにブルネイを発進したときの半数にも満たない。やがて全員が挙手の敬礼をする中、ラッパ手の『君が代』が演奏され、軍艦旗が降ろされた。そしてその後「総員退艦用意。自由行動をとれ」との号令が加藤副長から飛んだ。
号令とともに全将兵が、沈みゆく武蔵から海中に飛び込んだ。そこに猪口艦長はいなかった。加藤副長に遺書を託し、豊田副武連合艦隊司令長官に届けることを伝えた後、艦長室に戻り、従容として武蔵と運命をともにするのだった。
午後7時35分、武蔵は横転し艦首から一気に海没した。かくして不沈戦艦とも称された武蔵は、初陣がそのまま死出の門出となり、フィリピン・シブヤン海に6万5000トンの巨体を沈めたのであった。
元乗組員だった中根氏や大場氏の胸中には複雑なものがある。海没する武蔵の渦に巻き込まれて溺死した戦友もいたからだ。
「私自身も渦に巻き込まれましたが、程なくして浮き上がり、九死に一生を得ました。戦死したものにとって、武蔵はいわば“墓”なんですね。引き揚げることはその墓を失うことになり、それが果たしていいのかどうか…」(中根氏)
「私はこの4月、武蔵の慰霊祭でシブヤン海に行き、上官が好きだったタバコと大福まんじゅうを捧げて供養してきました。これができるのも武蔵がそこにあるからなんです。ここはやはり引き揚げず、静かにしておきたい。これが私の願いです」(大場氏)
武蔵の乗組員のうち、沈没時点で約1300名が救助された。しかし彼らはその後マニラ防衛で玉砕、あるいは内地に転戦するなど、終戦を迎えたのはわずかに430名だった。
海に死すのが宿命とされた海兵たち−−。遺族や関係者は遺骨収集を望む気持ちもあるが、「安らかに眠ってほしい」という思いも強い。