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競輪人国記 大阪(4)

 石田雄彦の選手登録は最初が和歌山。だが早い時期から実質的には大阪で練習していた。弱冠15歳で競輪選手となった石田は体力もなく、なかなか上位に行けなかった。そこで実家の建設会社で、斡旋の合間に力仕事を行い、体力をつけていったのだ。
 6年後、川崎オールスターで優勝。日本選手権も後楽園の昭和34年、39年と2回獲っている。もっとも39年の優勝は白鳥伸雄(千葉)が1着失格して繰り上がったものだった。
 その前年には松川周次郎-吉田実の香川ラインを分断したプレーで、2着失格となりブリブリ怒っていたことがあった。まさに前年は泣き、翌年は笑ったわけだ。
 競輪王を昭和30年に、高松宮杯を35年に制覇しているが、競輪王の勝利がのちの石田にとって競走への自信につながった。吉田実とともに一時代を作った石田。そのライバル意識はもの凄いものがあったという。

 先行、まくり、追い込みとなんでもこなす石田が獲れなかったタイトルは全国都道府県選抜競輪だけで、もしもこのタイトルを獲っていたら初代のグランドスラマーになっていた。
 昭和35年から37年まで最優秀選手賞を獲得、3年連続の記録をたてた。昭和52年から56年まで5年連続して最優秀選手になった中野浩一(福岡)に記録を塗り替えられるまで厳然たる記録として残っている。
 さらには昭和47年5月の四日市で大台の「千勝」を達成、松本勝明に続いて史上2番目の千勝男となった。
 生涯勝度数は石田が1160勝、吉田は1232勝と吉田が上回っているが、今は共に名輪会に名を連ねて競輪界に軌跡を残している。
 弟の功、忠雄(19期)も競輪界入りしたが、兄ほどではないにしても、忠雄は先行まくりで活躍して特別競輪に数多く出場、穴ファンにも人気があるレースをしていた。

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