郷土の代表校が日本一を争う。このトーナメント方式の大会が101回目を迎えた。都会に出た者、普段は野球にさほど興味のない者も故郷の代表校の勝敗だけは気に掛けてしまう。元号が変わっても、甲子園大会への注目度が高いのは、日本中が故郷を思い出す大会だからだろう。
そんな甲子園大会で見られる一つの光景が、ネット裏に陣取ったプロ野球スカウトたちである。彼らは、球児のどこを見て指名に踏み切るのか――。
「様子を見ましょう」
スカウトたちは他球団とも情報交換をする。自分たちが「イケる!」と見た球児を、他球団も高く評価していれば「大丈夫だ」と確信を持ち、その反対ならば、「もう一度調べ直そう」と思うからだ。「様子を見ましょう」はスカウトたちの間でよく使われる言葉で、指名するか否か、もしくは支配下登録で行くか、育成ドラフトに回すのかのボーダーライン上にいる球児に対し、その判断がつかないときに口に出す。
「試合で活躍したかどうかで指名を決めることは決して多くありません。練習態度も見ておりますので、総合的な判断で」(在京球団スカウト)
しかし、近年ではこんな視点もあるそうだ。「誰に教わったのか」。これは結構大事なことだという。甲子園に出場した球児が大学、社会人、プロに進んだものの、活躍できなかったなんてことは多々ある。伸び悩んだと言って、切り捨てられる話ではないのだ。
高校野球は金属バットを使う。バットの芯でボールを捉える技術があれば、甲子園大会でも本塁打を打てる。しかし、木製バットの大学、社会人、まして、一流の素質を持った投手の集まるプロの世界では通用しない。金属バットは芯に当てれば長打を打てるが、木製バットではそうはいかない。木製バット独特のしなりをきかせなければ、本塁打は生まれない。この木製バットでも通じる打撃フォーム、スイング軌道を教えられる指導者の下で野球を学んだかどうか、それで指名の最終判断を下すケースもあるそうだ。
先の在京スカウトがこう続ける。
「反対にこの人に教わったからダメだという目で見られている指導者はいません。ただ、この人に教わったから、打撃の基礎技術がしっかりできているとプラス材料で判断しています」
高校時代に「正しい打撃基礎」を習得した者が、上の世界に進んでも伸びるというわけだ。もっと言えば、この時期に学ばなければ手遅れになる。
「前時代的な表現ですが、最後にモノを言うのは精神力、根性。1位と2位の差も、それしかない」(前出・同)
野球に限らず、スポーツにおける暴力的な指導はなくしていかなければならない。スカウトたちの言う「根性」とは、一見理不尽にも思える練習メニュー、長時間の特訓を指示されたときの態度だ。「なぜ、こんなつらい練習をしなければならないんだ?」と否定的に捉えるか、「こんなところで自分に負けてたまるか!」と歯を食いしばって耐えられるかどうか、その精神力がなければ、プロの世界ではやっていけないのだ。
スポーツの世界でメシを食っていくとは、そういうことなのかもしれない。
真夏の日中に日本一を争う大会は残酷でもある。頑張りすぎて、せっかくの才能を甲子園で終えてしまわないよう、大人たちはもっと配慮しなければならないのだが…。(スポーツライター・飯山満)