本書は1991(平成3)年12月に桂歌丸門下に入門してから、1996(平成8)年2月に二ツ目へ昇進するまでの前座時代4年間を「起・承・転・結」の4章に分けて構成した小説だ。出版社からは「師匠から許可を得るの?」と問い合わせがあったという。
「もちろん師匠には事前に“こんな本を出します”と報告して許可はもらってました。でも原稿を見せてたら出版自体が不可能だったでしょう。なので、誰にも相談せず独断で出しました。ただ、うちの師匠も含めて今も現実にいらっしゃる方々ばかりなので、そのままドキュメンタリーみたいに書いちゃうと、いろいろ差し障りがある。そこで、小説という形のフィクションにしたんです」
“起”の章は落語家を志して歌丸師匠に入門を願い出、前座として修行を始めた時代の話。
「こんな世界があるんだ…と私が落語界に飛び込んだのは10数年前。師匠が自宅の近所に借りてくれたアパートに住み込みです。もちろん家賃は師匠持ち。そこから師匠宅に通って、掃除、洗濯、買い物まで家事をすべてやってました。1年間1日も休みナシで」
もちろん楽屋での修行もある。楽屋でネタ帳を付けたり、出囃子(はやし)の太鼓を叩いたりといったルーチンワークはもちろん、楽屋に控える師匠のみなさんの着替えを手伝ったりといった気を使う仕事もある。
「落語界というのは、とにかく年功序列。お茶を出す順番ひとつ間違えただけで楽屋じゃエラいことになりますから。師匠方全員の名前と顔を覚えるのは当前。一番気を使うのが序列が微妙な場合です。例えば楽屋に師匠が2人いて友達同士みたいに話していると、どちらが先輩か分からなかったりする。そこを見抜いてお茶を出さなきゃいけないわけですよ」
まだ1年目は見習いみたいなもの。師匠方も新弟子ということでようすを見ているところがある。本格的に厳しさを増すのは2年目から。ここを描いたのが“承”の章だ。
「2年目に入れば師匠も“もう大丈夫、逃げないだろう”と(笑)。だから毎日が小言の嵐。ジャブとストレート、たまにアッパー、みたいな(笑)。それもアゴが外れるようなね。うちの師匠は落語会でも一、二を争うほど躾(しつけ)が厳しいことで知られてますから、その門下に入った時点でこうなることは目に見えてたんですが(笑)」
前座は芸の修行ではなく人間修行の期間。それに2年目は毎日が夢中だったから、どんなに厳しい小言をもらっても当然だと思っていたそうだ。
「あくまでも私は“噺(はなし)家”になりたかったから。ずっと師匠は『笑点』に出てるけど、自分自身はテレビに出ようとは思わなかった。一生を寄席でまっとうする芸人を目指していたんです」
とはいえ、2年間も小言を毎日もらっていたら相当ストレスがたまる。3年目に入ると精神的にささくれ立ち、それを解消するため酒におぼれるという悪循環に陥っていた。ちょうどこのとき“転”機を迎える。
「そのころ、元世界ミニマム級チャンプだった大橋秀行さんが家の近所にボクシングジムを開いたんです。私と大橋さんは同じ年だし、なんか運命的なものを感じて(笑)通うようになりました。29歳でプロライセンスが取得できるギリギリだったんですが、幸いにもテストに合格して大橋ジムのプロ第一号になったんです」
ライセンスを取得したのだから、もちろん次はデビュー戦。だが、前座修行中の身には落語家をあきらめない限り無理な話である。
「もちろんデビュー戦への思いはありましたが、もし師匠に話せば“そっちで頑張んなさい”と破門されるのがオチ。自分のベースは落語かボクシングかを考えたら、それは落語です。自分が落語家だったからこそ大橋会長も全面的にバックアップしてくれたわけでね。話題になりますから。それでライセンスが取れたようなものです」
泣く泣くデビュー戦はあきらめたが、達成感はあったという。
「朝は師匠宅で家事、昼は楽屋仕事、夜はジムで1時間半トレーニング…相当キツかった。よくやれたなと思いますよ、他人事みたいですが。でも、前座修行とボクシングのトレーニングを両立させたという自信が、その後の落語家人生に役立ってます。ただ、スパーリングしてると顔がボコボコになるでしょう。すると楽屋でウワサになるわけですよ。アイツは夜な夜な街でケンカばかりしてるって。二ツ目の先輩から相当イジめられて、そっちのほうが大変でした」
入門してから3年半、二ツ目昇進の話が持ち上がり、ようやく前座修行“卒業”の目が出てくる。それが“結”の章だ。要は前座の厳しい修行に耐え、師匠方から“コイツは落語家としての基礎が身に付いた”と評価された者だけが二ツ目への道を許されるのだ。
「笑いの才能に自信のあるやつは落語界に来ませんよ。特に今はNSC(吉本興業の養成所)をはじめ大手芸能プロが続々と養成所を設立してますからね。簡単に芸人になれますから厳しい前座修行なんてやる必要はない。逆にお笑いに自信のないやつが落語家になるんでしょう。大師匠方にイチから仕込まれ、厳しい修行を乗り越えて一人前になるわけで。むしろ笑いの才能に自信を持っているやつほど潰されます。これから芸人を目指すみなさん、ご参考までに」