はなは事務所を借りていた坂本木平という土建業者の一人娘で田中より8歳年上。10年ほど前に婿をとって娘を1人産んだが離婚していた。田中によれば、「無口でよく気が付き、働き者であるところが気に入った」となる。結婚は翌17年、戦争が苛烈さを加えた中で式も披露宴もなし、3月3日の桃の節句にであった。
その夜、田中ははなから「三つの誓い」を約束させられた。はなは、言った。「一つは出て行けと言わないで下さい。二つは決して足げにしないこと。三つは将来あなたが二重橋を渡る日(天皇陛下に拝謁するの意)があったら私を同伴すること」と。その上で、「それ以外のことは私はどんなことでも耐えます」と結んだのだった。
なるほど、田中は三つの約束は守ったものの「それ以外のことは私はどんなことでも耐えます」の言葉をいいことに、その後のハデな“オンナ遊び”に人知れずはなの胸を痛め続けることになる。結婚したその年、長男・正法が、翌年、長女・真紀子が生まれた。ちなみに、正法は昭和22年、5歳で病死している。後に小沢一郎(現「生活」代表)をわが子のようにかわいがり将来の総理大臣への夢を馳せたのも、小沢が正法と同年の生まれ、姿がダブっていたからとの見方も根強かったのである。
その正法が生まれた昭和17年、田中は個人事務所の田中建築事務所を「田中土建工業株式会社」と組織変更し、翌18年3月年度の年間施工実績で全国50位内ランクと急成長、伴って“オンナ遊び”も一段と磨きがかかるのであった。
当時のバリバリの田中の姿を、筆者は衆院副議長や運輸大臣などを歴任、ベランメエ口調と憎めぬ言動で世間をケムに巻いた荒船清十郎代議士から、次のように聞いている。
「オラのところを、材木の買い付け先相談で突然訪ねてきた。『是非、先生のご助力をお願いしたい』と。まだ、田中はハタチちょっと出たくれェだったかなあ。驚いたのは、エラク算術の速いことだった。買い付けた山のような材木の金額を、パッと暗算で出してしまった。紹介した材木屋がそばで懸命にソロバンを入れていたが、とてもかなわなかった。その後、なかなか気っぷのよさそうな青年だったんで牛鍋屋へ連れてってやった。酒が入ると、何とオラに天下国家論をブチ始めた。相当、力が入っとった。このオラを黙らせておいてさんざんブチまくった後、今度は突然、膝を正して言うんだ。『先生には大変ご馳走になっちゃった。お礼にナニワ節をやらせて頂きますッ』ってね。確か“佐渡情話”だったと思うが、まぁ、とにかく普通のこの年頃の青年とは違っておった。“遊び”も相当知っとるようだった。それでなきゃ、こんな度胸は身につかん。将来もし政治をやれば総理大臣、カネ儲けやらせても三井、三菱くれェの大物に間違いなくなる。そうニラんだもんだ」
もう一人、長く政治家田中の秘書を務めた早坂茂三(後に政治評論家)が、田中土建工業当時にその取引先の大店の親方と一杯やった際、こんな話を聞いたと、田中の遊びっぷりについて次のように“公開”している。
花柳界・神楽坂で戦前戦後の幾多の政界裏面史の舞台となった料亭「松ヶ枝」の座敷の一幕である。親方は、こう言ったというのである。
「角ちゃんが店(田中土建工業)を出したころ、この部屋にオレを呼んで芸者衆を15人くらい侍らせた。若いのに助平話が上手で、本人も浴びるほど酒を飲む、ナニワ節を唸るで席が盛り上がった。それで並み居る芸者衆を見渡し、『オヤジさん、よりどりみどりだ。2階にでっかい布団を敷いてある。2、3人連れていっていい夢を見てくれ』と抜かした。オレが『角ちゃん、女は飽きたよ』と笑ったら、『そうかい。じゃあ、オレと寝るか』と言いやがった。まァ冗談めかしだったろうが、仕事をもらうのにも命懸け、何事にも真剣勝負のようだった」(「宝石」平成10年5月号)
こうしたエピソードに触れると、田中の“オンナ遊び”は、一見、女性軽視のように思えるがそれはまったく違う。田中の女性観の底流は、「人間平等主義」「透徹した人間観」の二つである。後者については、圧倒的に強かった自らの選挙を例にした次のような言葉で明らかだ。
「男は一杯飲ませて握らせれば転ぶ。しかし、女は一度こうと決めたら動かない。人間の本質が分からないで選挙など勝てるものか」
『人間学博士』の面目躍如の名言だが、前者の人間平等主義は次回で記す神楽坂など花柳界での田中一流の“遊び”の流儀で明らかになる。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。