三島が割腹自殺してから42年がたった今、海外の映画ファンはこの映画を観て何を思ったのか。自身41年ぶりのカンヌから凱旋帰国した監督に、その胸の内を語ってもらった。
「上映が終わった後、鳴りやまない拍手にまずは一安心しました。映画祭では数多くの映画が上演されるため、つまらない映画は途中で観客がドンドン退場していくんです。1000人以上入る劇場なんですが、誰一人として席を立つ人がいなかったのは嬉しかったですね。
金も名誉もある作家・三島由紀夫が、なぜ『楯の会』の若者たちと死へ突き進んでいったのか。今までさまざまな議論がなされてきましたが、映像でそれらを観ることができてとても良かったと、何人もの現地の人に言われましたよ」
2008年公開の映画『実録・連合赤軍浅間山荘への道程(みち)』では、永田洋子ら赤軍幹部が狂気へと走る様を衝撃的に描いた若松監督だが、なぜ、今回は民族派結社である『楯の会』、そして三島由紀夫を取り上げたのだろうか。
「インテリの評論家は右だ左だと言いますが、正直、私に思想なんてありませんよ。そもそも左右どっちだっていいじゃないですか(笑)。私は連合赤軍と楯の会の若者はどちらも一緒だと思っているんです。同じように国を憂いて決起した。誰もが皆、国のために体を張ったんです。起こした事件について賛否があるのは当然ですが、私は何かをやろうとして立ち上がった彼らの姿勢は共に評価したいんです。そんな部分を映像で表現したかったですね。そもそも三島由紀夫は45歳で自決しようと最初から決めていたんじゃないかな。桜のごとく、パッと咲いて散っていった。まぁ、その辺の解釈は人それぞれですから、映画を観た人に自由に考えてもらいたいですね。
元々、私の映画製作の原動力は“怒り”なんです。『この野郎、ふざけるな!』そんな気持ちを後世に作品として残したいんですよ。映像できちんとした形に残すことで、50年後でも誰かが目にすることができるでしょ。映画は娯楽というけれど、いつまでたっても犬や猫、病気を題材にしてるようじゃクソだよ! そんな映画、後になって誰が観たいと思いますか?
私は、別に作品に社会性を持たせたいと思っているわけじゃない。怒りの原動力を作品に変えて残したいだけですよ。だから出来上がった作品が褒められようが、ボロクソにけなされようが、一切気にしません。観た人がそれぞれ自由な感想を持っていいんです。平均的に受けを狙うから犬猫映画なんかが量産されるわけで、そっちの方が大問題ですよ」
宮城県出身の若松監督は若かりしころ、相当の問題児だったという。高校を1年で中退後、家出を繰り返し上京。様々な職種についたが、ちょっとしたケンカがきっかけで拘置所に拘留された経験もある。デビュー作であるピンク映画『甘い罠』では、その時の警官への反感から警官殺しを描くなど、反権力志向はこのころから培われていた。
「上京した当時は本当に明日のコッペパン1個をどうするかという生活でしたね。人生の目標なんてまったくありませんでした。食うために住み込みの仕事に就いたり、それはもういろんな事をしましたよ。船の荷揚げの仕事では1日働くとニコヨン、240円もらえるんです。朝、集合場所に集まるとヤクザが迎えに来てね。みんなトラックに乗って仕事に行く。ピンハネされて手元に残るのがニコヨンというわけ。そりゃ、悪さもすればケンカもよくしたね。当時は、まさか自分が映画監督になるとは思ってもみなかった(笑)。
最近の若者は『就職できない』なんて理由で自殺する人もいるでしょ。でもね、私の若い頃はもっと酷かったよ。そこら中にホームレスがいてね、みんな必死に生きていた。お先真っ暗と落ち込む前に、何か自分が残せるものをつくったのか? 努力をしたのか? もう一度よく自身を振り返った方がいい。過保護に育って考え方が甘いんだな。1+1のお勉強は私よりも優れているかもしれないけど、想像力は俺の爪の垢を飲め! と言ってやりたい(笑)。つらいことはあるだろうが、自信を持って語り部になれと思うよ」