龍虎は、その最後もまた劇的だった。家族でお参りに訪れた神社の、それも階段の途中で突然倒れ、そのまま息を引き取ったのだ。
俳優転向といい、その死に方といい、ファンを驚かせた龍虎は、昭和16年1月9日、羽田空港に近い東京都大田区大森で生まれている。小さい頃から背が高かったこともあり、両親は早くから「この子は力士にしよう」と決めていたという。
16歳のとき、東京都立大森高を中退し、憧れていた初代横綱若乃花のいる花籠部屋に入門。このとき、すでに身長は181センチもあったが、体重が75キロしかなく、ヒョロヒョロとしていた上、稽古するとバタバタと倒れるので、口の悪い兄弟子たちから「デンチュー」と呼ばれた。電柱のことだ。
昭和32年初場所で初土俵。同期は50人もおり、その中に後の横綱北の富士、幕内若ノ州らがいた。
龍虎は本名の鈴木に山をつけた「鈴木山」という四股名で土俵に上がったが、とにかく弱かった。後に北の富士が自著『土俵で燃えろ』の中でこんな一節を披露している。
「前相撲でなかなか勝てなかったが、おれより弱いヤツがいる、と安心させてくれるヤツがいた」
その弱いヤツが、龍虎だった。
このことは、番付に四股名が載る前の前相撲に3場所もいたことでも分かる。序ノ口は1場所で通過したが、序二段を抜けるのに14場所もかかり、三段目に7場所、幕下には35場所もいた。年6場所だから、幕下だけで6年近くもいたのだ。
こんなふうに、一向に目が出なかった龍虎。
「四股名でも変えたら出世運も変わるのでは」
そう思った龍虎は「花武蔵」や「若神山」に改名。そしてもう一度「花武蔵」に戻し、さらに師匠の花籠親方(元幕内大ノ海)に勧められて「龍虎」に変えた。この龍虎を名乗ったのは幕下31場所目のことで、4場所後に幕下優勝して、やっと十両に昇進した。
★お前みたいな弱いヤツは…
この間の昭和37年夏場所、初代横綱若乃花が引退し、二子山部屋を興して花籠部屋から出ていった。泣いて同行を願った龍虎に、若乃花はひと言。
「お前は残った方が(稽古相手もいて)いい。第一、お前みたいな弱いヤツは連れていけない」
こう言って断られたのだ。これは若乃花の親心だったが、発奮材料になったのは間違いない。
昭和42年春場所。龍虎は27歳で入幕すると、まるでこれまで足踏みした分を取り戻すように、眠れる才能を一気に開花させた。この新入幕の場所で、優勝次点の11勝をあげ、敢闘賞を受賞。はつらつとした相撲の上に、力士にしておくのがもったいないような美男だから、人気が沸騰するのは当然だった。
こうして、ついに人気力士の仲間入りをした龍虎は、この1年後の昭和44年春場所で、再び大爆発を起こす。この場所は、2日目に横綱大鵬の連勝が“世紀の誤審”により45でストップし、ビデオ判定が採用されるきっかけになったことで有名だが、龍虎は5日目にこの大鵬を破るなど、12勝をあげて最後まで優勝戦線に踏みとどまり、殊勲、敢闘をダブル受賞したのだ。
龍虎は春場所とはすこぶる相性がよく、1年後の昭和45年春場所には新三役の小結に昇進している。
結局、この自己最高位となる小結に計3場所在位し、華やかな土俵生活を謳歌していたが、入幕4年目の昭和46年九州場所6日目に大きな運命の転換点を迎えた。巨漢力士として知られる義ノ花の上手投げに横転したとき、左足のアキレス腱を断絶してしまったのだ。
「(入院が)2カ月もかかるとは参ったな。まあ、いいや。ついでに飲みすぎて痛めている肝臓の治療もやってもらうか」
病院に担ぎ込まれた龍虎はこう言って笑い飛ばしたというが、治療は意外に長引き、再び土俵に立てるようになるまで3場所もかかった。その間、番付も前頭3枚目から十両を通り越し、幕下の西42枚目まで落ちていた。
この龍虎の不運なけがが後に公傷制度のできる引き金になるのだが、ここからの鮮やかな復活ぶりが、また龍虎人気を高めた。幕下3場所、十両も3場所で通過して、1年後には再び幕内に戻ったのだ。昭和48年名古屋場所のことだった。
龍虎の絶頂とも言えるのが、翌昭和49年秋場所14日目の横綱北の湖戦だった。激しい突っ張り合いからもろ差しになり、北の湖が出てきたところを回り込みながらはたいた。すると、横綱になったばかりの北の湖が大きくバランスを崩し、さらに突き落としの追い打ちをかけるとばったりと前に落ちたのだ。これが龍虎にとって2個目の金星で、戦後の大相撲界を代表する大鵬、北の湖の両方を破った力士としても名を残すことになった。
この2場所後には小結にも返り咲いている。元三役力士が幕下まで落ちて、再び三役に復帰するのは、戦後初めてのことだった。
ところが、こんな奇跡を演じた龍虎を、またまた不運が襲った。昭和50年夏場所初日、旭国戦の最中、4年前とは反対にあたる右足アキレス腱を断絶したのだ。
すでに34歳になっていた龍虎は復活を諦め、この場所限りで引退。年寄「放駒」を襲名した。
★四股名のまま芸能界進出
いかにも江戸っ子らしい、さっぱりした決断だったが、2年後にもう一度、同じような決断をして大相撲界を去った。すでに放駒親方時代から、その美男ぶりを買われて映画やテレビドラマなどに出演していたが、本格的にタレント、俳優、さらに大相撲関連のコメンテーターとして活動する決心をしたのだ。四股名をそのまま芸名にした「タレント龍虎」の誕生である。
そして、その名を一躍、有名にしたのが昭和50年から17年も続いたTBS系列の料理バラエティー『料理天国』の試食係だった。ビシッとした背広姿で登場して、出来立ての高級料理をいかにもうまそうに食べ、
「おいしいですね」
とひと言もらすのが当時の流行語にもなった。また、テレビドラマ『大江戸捜査網』や北島三郎の舞台などでも欠かせない存在で、『暴れん坊将軍』『桃太郎侍』『名奉行遠山の金さん』など、あちこちから引っ張りだこ。いわゆる売れっ子になったのだ。
この間、平成2年と10年の2度、クモ膜下出血で倒れているが、そのたびに奇跡的な回復を見せている。裏には、平成4年4月に結婚した貴子夫人の献身的な支えがあったのは言うまでもない。
この貴子夫人は観世流太鼓16世宗家、観世元信さんの長女。1男1女をもうけ、龍虎は幸せの絶頂にひたっていた。
ただ、この不死鳥のような復活劇が、あるいは非業の死の伏線になったのかもしれない。
平成26年8月29日、龍虎は貴子夫人、長女珠子さん、長男則裕さんの家族4人で静岡県掛川市を旅行し、市内の事任八幡宮をお参りした。ここは龍虎が3年ほど前からよく参拝に訪れていたところで、お参りする前にいつものように社務所に立ち寄り、関係者と談笑している。
「以前、お願いしていたことが叶ったので、そのお礼参りに伺いました」
そう明るく話す龍虎に、
「お若く見えますね」
と関係者が話しかけると、嬉しそうに笑っていたそうだ。この時点ではすこぶる元気だったのだ。
その後、家族は社務所の奥、271段の階段を登ったところにある社に向かった。この家族旅行をとても喜び、最初は張り切って歩いていた龍虎だったが、間もなくペースダウン。
「少し疲れたのでゆっくり行く。みんなは先に行って」
先に登った貴子夫人だったが、いつまで経っても来ないので後戻りしてみると、階段の途中に龍虎が倒れているのを発見した。
すでに息はなく、駆け戻った則裕さんが慌てて心臓マッサージをしたが、意識は戻らない。救急搬送された龍虎は、掛川市内の病院で死亡が確認された。死因は循環器疾患。享年73。
葬儀は、この急な死から7日後の9月5日。葬儀委員長は同期入門で現NHK解説者の北の富士さんが務め、棺の中には、向こうに行ってもお腹が空かないようにと、貴子夫人手作りの弁当が納められた。
龍虎は天国でその弁当を広げ、いつもテレビ番組で見せたように、こう言ったに違いない。
「おいしいですね」と―。
相撲ライター・大川光太郎