埋蔵金の権威といわれた畠山だが、実は自ら本格的な発掘に乗り出すのは、これが初めてのことだった。その著書を読んで埋蔵金を掘り当てた人物が過去に2人いるそうだが、まだ自身の実績はないので、70歳を過ぎたそのころ「自分の手で一つくらいは」という気持ちが高じ、未公表のとっておきの場所を掘ろうと決心したのだった。
ただ、公にやるわけにはいかない。マスコミに騒がれると、せっかく調査に合意してくれた地元に迷惑が掛かる。そこで、秘密を共有できる筆者と仲間が実働部隊として選ばれたというわけだ。
9月から10月にかけて、ほとんど毎週末に永井へ通い続けた。上越新幹線が開通したのは1982年だから、当時は上越線の後閑で下車し、バスとタクシーを乗り継いで行くしかない。現地では、民宿と食堂を兼ねた『越路』に泊まり、目と鼻の先の畑の真ん中に縦穴を掘り下げた。
謎のトンネルは長い間閉ざされたままで、入り口がない。かつては越後方面の大名も宿泊したという本陣の蔵の裏手から、十二神社の下に向かって掘られたと想像された。それが戦前の軍用道路としての工事中と、戦後、国道17号となって舗装工事をする際に偶然現れたという。
本当は穴の開いたところを掘ればいいのだが、まだ関越自動車道もなかったころで、17号は関東と新潟を結ぶメーンルートだったから、とても不可能。そこで、トンネルを見たことがあるという越路の主人の記憶を頼りに、道路面より5メートルほど高い畑からトンネルに向かって縦穴を掘り下ろすことにしたのだった。
しかし、幅1メートルもないような横穴にうまくぶつかるはずがない。8〜9メートルを目安にしていたが、結局12メートル掘っても到達できず、第1ラウンドはそこで終了となった。
翌年、畠山は「永井史蹟学術調査」の名目で建設省(当時)の許可を取り、国道脇の斜面を崩して、そこから縦穴を掘り下ろすことにした。
戦前に穴が開いた場所に近いからより確実で、深さも3メートルも掘れば十分だと思われた。ただ、目の前を大型トラックがひっきりなしに通るので、細心の注意が必要だった。
8月初旬に発掘開始、猛暑の中で目標の深さまで掘ったが、横穴は現れず、一時は穴の存在そのものを疑うほどだった。しかし、地元の古老の記憶を頼りに掘り続けた結果、思いがけなく、側溝の真下の道路面からわずか1.2メートルのところに空洞が現れた。
トンネルさえ見つかれば黄金をゲットしたも同然と信じて疑わなかったので、入り口が開いたときには畠山はもちろん、われわれは小躍りしたが、慌てふためいたのは建設省の道路パトロール隊だ。長い間空洞を放置していたことは大失態なわけで、内部の調査は2週間だけにしてほしいと懇願されれば、無理矢理掘らせてもらった手前、応じるしかない。
幅約60センチ、高さ約1.6メートルで延々と続くトンネル内は、幸い空気の状態は問題なく、窮屈な姿勢ではあったが、安全に侵入することができ、すぐにその全容がわかった。途中で1カ所分岐があるT字形で、総延長は約90メートル。
しかし、中は空っぽだった。10万両あるとすれば千両入りの金箱で100個、2千両入りでも50個なければならない。狭い横穴のどこかに、さらに穴を掘って埋めるのは到底無理だから、むき出しに置くしかないはず。その可能性は消えた。
とりあえず、金属探知機に反応があった場所を3カ所だけ掘ったが何もなく、最も怪しげな、そこだけ少し広くなった分岐点のうずたかい土の下は、結局時間切れで掘れなかった。それが今でも心残りだ。
2週間がたった同年8月末、建設省はダンプ3台分の砂利でせっかく開いた入り口を埋め、数年後にはご丁寧にコンクリートの擁壁を造った。再度中を調べることになれば、また5メートル上の畑から目指すしかない。
畠山はその後、永井のことを口にすることはなかった。落胆は大きかったようで、まもなく体調を崩して入退院を繰り返した末、1991年に85歳で世を去った。
(完)
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。