search
とじる
トップ > レジャー > 遠い記憶 羽田競馬場の歴史(2)

遠い記憶 羽田競馬場の歴史(2)

 前回は羽田競馬場が東京における最初の地方競馬場であり、江東の新競馬場から再び羽田に戻るまでを記した。
 羽田競馬の再開にあたっては、主催者事務所、入場券売場、投票所、景品交付所が改築されたほか、厩舎7棟が増築された。この競馬場では1931年(昭和6年)まで合計7回の開催が行われ、最後となった同年7月17日から19日の3日間の開催では、41万2455円の売上を記録している。ちなみに当時の物価はそば1杯が10銭、教員の初任給は50円だった。
 そんな盛況ぶりにもかかわらず、なぜ開催は終了してしまったのか。理由は2つある。ひとつは競馬場用地の所有者からの地代アップの要求。もうひとつは、他の競馬場に比べ、施設の狭隘(きょうあい)化が目立つようになり、組合側から1マイル(約1600m)馬場への改修を望む声が大きくなってきたことだ。

 これらの事情を受け、羽田競馬は新競馬場への移転計画が、すでに持ち上がり、建設予定地には、蒲田町鈴木新田御台場耕地が決まっていた。予定地は多摩川の河口にできた広大な干潟で、天保年間(1830年〜1844年)には幕府が砲台をつくろうとして中止したところでもあった。現在の東京国際空港(羽田空港)の東南部、A滑走路の先端あたりがその場所である。
 ただ、同地は土地台帳上こそ畑地とされていたものの、満潮時にはほとんどが水没してしまう湿地帯だった。そのため、主催者側は東京湾埋立株式会社に施工を発注。同地を埋め立て、盛り土をして競馬場を建設するという当時としては一大プロジェクトを敢行した。 完成した新競馬場の総面積は10万坪(約333平方メートル)、1周1600m、幅員30mという規模。現在の大井競馬場の外回りコース(1周1600m、幅員25m)と同規模といえば、その広さが実感できるだろう。経営は、東京府畜産奨励会があたった。
 ※参考文献=大井競馬の歩み/大田区の近代文化財/写真でみる郷土のうつりかわり/地方競馬史第一巻(1972年 地方競馬全国協会)

関連記事


レジャー→

 

特集

関連ニュース

ピックアップ

新着ニュース→

もっと見る→

レジャー→

もっと見る→

注目タグ