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【放送事故伝説】自分の「死期」が分かっていた? 往年のスターがラジオのまとめ撮り

 タレントや芸能人も「人間」だ。不慮の事故や病気で出演が不可能になると代役が立てられたり、番組が打ち切られたりすることもある。

 今回は1961年に発生した放送トラブルをご紹介したい。

 昭和30年代、日本映画界では赤木圭一郎という若手スターが活躍していた。1958(昭和33)年に日活に入社。今までの俳優にはなかった西洋的な風貌からまたたく間に若手スターとなり、「タフガイ=石原裕次郎」「マイトガイ=小林旭」に続く「第三の男」と呼ばれるほどの人気を誇った。

 ところが、その役者人生は長く続かなかった。デビューからわずか3年後の1961年2月14日。赤木は主演映画の撮影の休憩中、セットの中にあったゴーカートで遊んでいた際、ブレーキとアクセルとを踏み間違え、時速60キロ以上のスピードで大道具倉庫の鉄扉に激突。病院へ緊急搬送され一時は意識が戻ったものの、6日後の2月20日に再び意識を失った。翌21日に前頭骨亀裂骨折に伴う硬膜下出血のため、21歳の若さで死去したのだ。

 わずか3年の間に残された映画は撮影中だったものも含めて約30本、レコーディングした歌は25曲あったとされている。

 そんな赤木だが、短いキャリアの中で1本だけパーソナリティを務めたラジオ番組が存在した。それが文化放送の『赤木圭一郎のおしゃべりサロン』だ。最初は『赤木圭一郎のミュージックボックス』という音楽中心の番組だったのだが、赤木の飾らない語りがリスナーに好評で、トーク中心の番組に変更されたという。

 しかし、当時の赤木は映画に歌にと多忙を極めており収録は毎週ギリギリ。ストックを作らない「撮って出し」スタイルで放送を続けていたのだが、赤木がゴーカート事故を起こす4日前の2月10日に「今日は3本分撮ってしまおうよ」と赤木側から提案があり、番組初の3本撮りを行っていたのだ。

 番組は赤木が亡くなった後の2月25日まで放送は続き、番組に穴を空けることなく次番組へバトンタッチできたという。

 突然の3本撮りの提案に対し、当時の担当ディレクターは「こう言うとアレだけど、赤木さんはまるで自分の死を分かっていたようだ」と語っていたという。

 不慮の事故とはいえ、お世話になった人には極力迷惑をかけない……赤木圭一郎の生き方はまさにプロフェッショナルだったという。

文:穂積昭雪(山口敏太郎事務所)

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