「引退後もこれほど、しっかりサッカー界で活躍しているのは、彼の人柄によるものが大きいですよ。彼を悪く言う人はまずいないというくらい人望があって、穏やかで常識人。プレーヤーとしての実力よりも、サッカーを愛する気持ちや熱意、人柄、指導力という部分が大きく評価されているんじゃないかな」(元夕刊紙サッカー担当記者)
群馬県前橋市出身の小島は小学5年生から本格的にサッカーを始めた。もともとフィールドプレーヤーだったが、新島学園高校時代にゴールキーパーに転向し、同志社大学から88年、当時JSLのフジタ(のちのベルマーレ平塚ー湘南ベルマーレ)に入社した。長年、社員選手として控えGKであったが、94年、ベルマーレ平塚としてJリーグに昇格1年目より正GKとして定着した。95年1月に晴れてプロ契約を結び、同年、日本代表にも選出された。初出場時のブラジル戦でみせた“カミカゼアタック”はイングランドスポーツ紙の1面も飾るインパクトだった。98年、フランスW杯では第3GKながら、最年長としてチームのムード作りに一役買った。
ベルマーレ親会社の経営不振のあおりを受け、99年にアビスパ福岡に移籍し、その後一旦は解説業の道に入るも、02年にザスパ草津に選手兼コーチとして入団し、群馬2部だった草津をわずか3年でJ2昇格に導いた。この実績は小島ならではのものであり、大きく評価を高めることとなった。
「当時、都道府県リーグの草津に入っても小島は妥協することなく、全身全霊でチームを盛り立てていました。小島自身ももう一度Jリーグでプレーしたいという夢もあり、年齢のことで相当プレッシャーも感じていたようですが、とことん勝ちにこだわって飛躍に繋げたのです。結果を出さなければチームも消滅してしまいますからね。自己管理も徹底していましたよ。毎日、食べたものをノートに書いてウェイトをキープしていました。ほんの1キロの体重増加でもプレーに悪影響が出ると言っていました」(前出記者)
そのような徹底した努力によって小島は05年11月にJ2最年長出場記録を更新、06年1月24日に17年に及ぶ現役生活にピリオドを打った。冒頭に書いたように現在は「日本のファンがW杯だけでなく、一つ一つの試合に気持ちを入れ込んでもらえるように自分はサッカー界に貢献したい」と解説にもサッカー愛いっぱいだ。ミスをした選手を責めるのではなくミスを見逃さなかった選手を褒めるという小島ならではの解説法には温厚な人柄が表れていて老若男女ファンが多い。人望厚い小島には近い将来、プロチームの指導者という可能性も大いに期待される。