数多の来日外国人の中で最もファンに愛された選手の1人、スタン・ハンセン。全日と新日の両団体で長く活躍し、それぞれにファンがいることを考えると、ジャイアント馬場やアントニオ猪木以上の人気レスラーとすら言えるかもしれない。
その代名詞が一撃必殺のウエスタン・ラリアットだ。自らの左腕を勢いよくブチかますだけという明快さで、少年ファンが容易に真似できることも人気を後押ししていた。
もとはアメリカン・フットボールにおける相手の首に腕を引っ掛けて倒す反則行為で、米マットではクローズラインと呼ばれるこの技が、日本でのみ“ラリアット”と称されるのは、もちろんハンセンの影響があってのこと。
ラリアットを和訳すれば“投げ縄”であり、本来、カウボーイと縁のない日本人選手にはふさわしくない技名なのだが、それほどにハンセンのインパクトは絶大だったわけである。
「ハンセン自身も、これをフィニッシュホールドとして非常に大切にしていた。一見すると力任せの単調なラフファイターのようですが、実際にはフェイントをかけてラリアットへの期待を高めるなど、試合の組み立てもしっかりとしていた。なによりこの技を乱発しなかったことで、ハンセンのラリアットだけは“別格”と印象付けました」(プロレスライター)
初来日となった'75年9月の全日参戦時には、馬場から「馬力だけの不器用なレスラー」と酷評を受けたハンセンだが、その後、WWWFでの王者ブルーノ・サンマルチノとの連戦、そして新日参戦を経て大きく成長を遂げていた。
「新日では“ブレーキの壊れたダンプカー”の印象も強いが、のちのザ・ロード・ウォリアーズに代表される“ハイスパート・レスリング”とは異なり、この頃のハンセンはすでに緩急をつけた試合運びをしており、相手の攻めに対するバンプ(受身)もしっかり取っていた。巨躯から繰り出されるエルボーやストンピングの一発ずつが重くて激しいために、そうしたテクニカルな面が目立たなかっただけです」(同)
相手によってスタイルを変える巧さがあったからこそ、多くの名勝負を生み出し、ベテランになってからも第一線で闘い続けることができたのである。
また、凶器などの反則攻撃に頼らず、自らの肉体によって相手を追い込む、その真面目な試合ぶりと強靭さから、ヒールでありながらベビーフェース的な人気を博した。
'81年5月のアブドーラ・ザ・ブッチャー移籍に端を発した新日と全日の引き抜き合戦で、新日のトップ外国人だったハンセンも全日へと移籍することになる。
「ハンセンが移籍を決意した理由の一つに、ブッチャーを獲得した新日への不信感があった。新たにトップヒールが参戦したことで、自分の働き場所が減らされると考えるのは当然です。さらに加えて、プロモーターとしての馬場への信頼もあった。当時の全日は、世界的に見ても金払いのしっかりした優良団体でしたから」(専門誌記者)
かくして、ハンセンの全日参戦が決まった。'81年12月、世界最強タッグの決勝戦において、ブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドを務め、全日再登場を果たしたハンセン。それに対して試合後に乱闘を仕掛けていったのが、引き抜きの張本人である馬場だった。
そうして翌年2月には、自ら保持するPWF王座を懸けてのハンセンとの一騎打ちが決まる。この当時、すでに衰えを指摘されていた馬場だけに、ファンからは「ハンセンに壊される。いや、殺されるのでは…」と、悲痛な声も聞かれたものだった。
「とはいえ、馬場が新日経由の選手と闘って“猪木より格上”をアピールするのは、かつてのビル・ロビンソン戦や大木金太郎戦でもあった常套手段。それでも当時、両者の勢いの差から馬場の善戦は予測し難かったのですが…」(同)
そんな中で迎えたシングル初対戦。結果的には場外乱闘時に、レフェリーを巻き込んでの両者反則に終わったが、試合では終始、馬場がリードする展開となる。
不意打ちの十六文キックに始まり、逆十字固めや肩越しのアームブリーカーなど、猪木を思わせる左腕殺しを徹底してハンセンを完封。その試合ぶりにファンやメディアからは、一転して“馬場復活”の声が多々聞かれることとなった。
「馬場の奮闘を意外に思う人は多かったが、むしろ馬場がロビンソン戦のように“完勝”しなかったことが、ハンセンの商品価値を高く見積もっていたことの証明と言えます。また、同年代のジャンボ鶴田ではなく自ら相手を務めた裏には、ハンセンに常連参戦させる価値があるか、そのレスラーとしての姿勢やスキルを見定める意図もあったようです」(同)
この試合でめでたく馬場の眼鏡にかなったハンセンは、馬場の新たなライバルという形で全日に定着する。
馬場との直接対決は都合12回。4勝4敗4分け(ピンフォール決着はハンセン2勝、馬場1勝)の結果を残すこととなった。