その名は水野又太郎良春。(出身は志段味。現在は名古屋市守山区にあたる)
記録として表に出てきたのが元弘の乱(1331年)。奈良にある吉野金峯山寺の僧兵団の将軍として、大塔宮に属し戦う。戦いの後は地元の志段味(名古屋市守山区)に帰るが、南北朝の乱(1336年)で再び奈良の地に呼び戻され、南朝サイドで戦う。遠方の地より、わざわざ良春が呼ばれたということはかなり頼りにされていたことがわかる。
長い戦いが終わった後、住まいを志段味より南の地(尾張旭)に移り、田畑を切り開き新居村を作った(1361年)。現在では尾張旭市新居町という名称だ。
尾張旭駅前のロータリーには、この地を切り開いた水野又太郎良春の銅像が建てられていて、別の場所に墓所も残っている(没年1374年)。奈良で僧兵の将として戦っていた当時は無二(むに)と名乗っていたこともあり、修験道から持ち込んだといわれる棒の手(棒術)は無二流として、今も受け継がれているのだ。
毎年、棒の手を神社に奉納するお祭りが開かれれており、良春が残したモノの大きさを物語る。
棒の手(棒術)は無二流以外にも流派が存在し、尾張旭に伝わるのは検藤流、直心我流、東軍流、直師夢想東軍流があり、この5流派は『尾張旭の棒の手』として愛知県指定文化財に指定されている。
水野又太郎良春は勇猛果敢でリーダーシップがあり、修験道を経験したことから、精神の強さを持った知的かつ、誇り高き武将だったと思われる。
執筆者:文科系忍者記者ドラゴン・ジョー(山口敏太郎事務所)
参照 山口敏太郎公式ブログ「妖怪王」
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou