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競輪人国記 愛知(3) 何番手からでも曲芸のように追い込んできた「中割りの昌山晃夫」

 「中割りの昌山晃夫(1期)」といえば、何番手からでも曲芸のように追い込んでくるテクニックの持ち主だった。
 昭和31年の名古屋・全国都道府県選抜の4千メートルで優勝、地元で花をかざった。また、選手間に信望があって特別競輪の選手代表を務めることが多かった。

 あれはいつ頃だったろうか。高松宮杯の準決勝で平間誠記(宮城)と高原永伍(神奈川)が併走して、平間が高原の外から競り込み、平間のタイヤが高原の右手をこすり、やけどを負わせたことがあった。
 この時はレースに関しては文句を言わない高原が平間「これを見ろ」と詰め寄ったことがある。危うくケンカになりそうな気配になった時、昌山が飛んで来て二人を分けた場面があった。二人は昌山の顔を立てておさまったが、それも人格者の昌山ならではの仲裁ではなかったろうか。
 昌山は名古屋バンクよりも春日井の街道練習が多かったと聞く。
 弟の勝利(17期)は先行、まくり、追い込みと使い分けていたが、特別競輪にも出場するパワーがあった。
 同じ17期の小島浩(埼玉)との闘いは見ものだった。どちらかというと小柄な兄に比べて大柄な弟。700勝をあげたあと引退した。
 当時、愛知のスターといえば、小川朝満(14期)と佐藤敏男(20期)がいた。佐藤はイケメンというよりは稚児さんのように可愛かったが、結構レースでは強引なところもあった。力は特別競輪を獲れるものがあったが、なぜか引退は早かった。
 小川はいかにもスポーツマンらしい体つきで昭和44年に高松宮杯では優参したが、さっさと先頭をとって「なんで勝負しないの」と聞いたことがある。優勝は高原永伍で2着は工藤元司郎(東京)。松本秀房(熊本)もいたし、藤巻昇(神奈川)平林巳佐男(東京)もいた。「名より実を取った」のだろう。
 当時は先頭をとると賞金は3.5着くらいになったから、小川が「実をとった」のも無理はない。
 小川は須田一二三(三重)と仲が良かった。同じ中部ということもあるが、特別競輪ではいつも一緒に行動している姿を見たものだ。
 変わっていたのは清嶋彰一だ。最初は名古屋の黒須学校にいて、すぐに飛び出し、東京→福井→最後は沖縄にいった。自尊心が強くて「道場」スタイルになじまなかったのだろう。

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