「今年3月、春場所終了後の改選までの期間限定とはいえ、“次のトップは八角”というのは北の湖理事長が存命の頃からの既定路線。当面は八角体制が続くことになるでしょう」(スポーツ紙記者)
兄弟子の九重親方(千代の富士)ではなく八角親方が理事長となったのは、すい臓がん手術後の九重親方が、療養中ということばかりが理由ではない。
「横綱としては千代の富士の実績が断然ですが、引退後となると話は別。八角親方が九重部屋から独立して部屋を興したとき、九重付きの親方衆がすべて八角へ移籍したように、圧倒的に北勝海の人望は厚い」(同)
国民的スターとして人気を集めた千代の富士が、それゆえの自己中心的な振る舞いも見られたのに対し、北勝海は周囲への気配りを欠かさず、後輩の面倒見もよかったという。
“花のサンパチ組”と称された双羽黒(北尾光司)や孝乃富士(安田忠夫)ら、身の丈2メートル近い巨漢の同期生に比べ、北勝海は身長181センチで力士としては標準。入門当時はさほど期待をかけられることもなく、自身も「目標は十両昇進」と語っていた。
だが、ぶつかり稽古をやり過ぎて前頭部が禿げ上がったほど、熱心に相撲に取り組む姿勢は多くの関係者が認めるところ。そんな真面目さを千代の富士に見込まれた北勝海は(入門時の四股名は本名の保志)、チャンコ番など新弟子に課せられる雑用を免除され、連日にわたって兄弟子の稽古相手を務めた。
北勝海自身が「当時の猛烈な稽古があったからこそ横綱に昇進できた」と言い、千代の富士も「長く現役を続けられたのは北勝海との稽古のおかげ」と語っている。しかし、そんな特別な関係だったことで、「北勝海は千代の富士の不在か不調の場所だけ強い」とも言われたりした。
「一部では『千代の富士が買った星を北勝海が返していた』なんて陰口もあったが、その真偽はともかく、千代の富士と優勝争いをしている相手を北勝海が破るケースも目立った。そのため“千代の富士の番犬”のイメージが付いて回ったのは事実です」(大相撲関係者)
北勝海の絡んだ大勝負でも、どこか脇役として見られることが多かった。1989年7月場所、54年ぶりとなる同部屋横綱同士の優勝決定戦でも、主役はもちろん兄弟子の千代の富士。突き放しに活路を見出そうとする北勝海だったが、まわしを取られると為すすべもなく土俵を割った。
そんな北勝海が名実ともに主役を張ったのが、同年の初場所であろう。前年の5月場所中に持病の腰痛を発症して途中欠場となると、以後は3場所連続の全休。年を越した1月、復活を期して本場所に臨んだものの、北勝海は直前の発熱で出場すら危ぶまれていた。しかし、場所前の1月7日の朝、昭和天皇の崩御が伝えられる。
相撲好きで知られた昭和天皇を慮り、翌8日の初日が順延となったことが北勝海にとっては幸いとなった。体調を戻した北勝海は初日から白星を重ねると、14日目には前年3月場所の本割と決定戦で連敗し、逆転優勝を許した大乃国にも雪辱を果たす。
そうして迎えた千秋楽、相手は当時、大関で13勝1敗の旭富士(現在の伊勢ヶ浜親方)だった。ちなみに両者の対戦成績は、通算で北勝の23勝19敗と実力は拮抗(優勝決定戦を含む)。終生のライバルともいえる存在だ。
旭富士は14日目に苦手だった千代の富士を下すと、その勢いのまま千秋楽の本割でも北勝海を寄り倒す。ともに14勝1敗で並んだ優勝決定戦、北勝海がよく踏み込んで左前腕でカチ上げると、顎の上がった旭富士に全体重をかけてぶつかり、一気に寄り倒してみせた。
長期欠場からの復帰戦を優勝で飾った北勝海は、その表彰式が行われる土俵上で歓喜の涙を浮かべた。なお、昭和天皇への配慮から優勝パレードや祝賀会は中止されたが、それもまた質実剛健の北勝海らしいエピソードといえそうだ。