デビューは昭和31年12月。5年後、昭和36年の高松宮杯では石田雄彦(大阪)松本勝明(京都)加藤晶(京都)ら地元近畿地区の強豪相手に優勝した。翌37年も吉田実(香川)白鳥伸雄(千葉)平間誠記(宮城)という超一流選手を蹴散らし、連覇を達成している。
笹田の追い込みはさらに磨きがかかる。初めて日本選手権に優参した昭和38年の一宮では4着だったが、翌39年の後楽園では松川周次郎―吉田実の香川ラインが石田雄彦のけん制にあって不発に終わったものの得意の中割りを決め、最大のビッグイベントを獲ってしまった。
徳島弁しかしゃべらない笹田はマスコミが嫌いだった。取材した私も徳島弁は分からないから、インタビューは及び腰になる。ただ、表彰台の真ん中に立った笹田の涙が印象的だった。今でこそ日本選手権は競輪グランプリに比べて格下と思われているが、当時は日本選手権(競輪ダービー)に参加することが競輪選手にとって最高の名誉であり、このビッグレースを獲ることは「夢のまた夢」だった。笹田の涙は「鬼の目にも涙」だったのだ。
翌39年11月の後楽園でも高原永伍(神奈川)木村実成(群馬)佐藤秀男(宮城)を破って2度目のタイトルを獲得している。そんな笹田がなぜ「スッポン」と言われたのかには訳があった。