昭和27年の競輪選手賞金獲得額では男子の1位が高倉登(埼玉)で374万円余、田中は185万円を獲得して当時のライバル渋谷小夜子(神奈川)を抑えている。その年の女子の年間獲得賞金は669人の登録選手がいて平均21万円だったから、田中がいかに強かったか分かる。
昭和28年には有江美和子(長崎)立川玉子(岡山)に次ぐ3位で翌29年には立川に敗れ2位となったが、30年から34年まで4年連続、賞金女王の座を占めた。男子の賞金アップに比べ女子の賞金はほとんど増額しなかった。当時の世相を反映したものだった。その後は高橋恒(大阪)と結婚して移籍したが、夫の高橋も昭和28年4月の名古屋・全国都道府県選抜6000メートルで優勝。同年9月の花月園・全国都道府県選抜2800メートルでタイトルを獲った。
とにかく田中の強さは女子選手では練習相手がいないほどで「男子でも練習では負ける選手がたくさんおったよ」(河内正一)というほどだった。全プロ大会でも田中は活躍。昭和31年静岡、32年岸和田、33年小倉、34年名古屋と女子速度競走(競輪と同じようなレース)で4連覇している。
日本選手が世界選手権出場を認められたのが、昭和32年だから、もしも女子の参加が認められていたら、田中もヨーロッパの女子を相手にメダルを獲得していたかもしれない。