5月11日からの対福岡ソフトバンク3連戦で、清宮の快進撃がいったん止まった。プロ初アーチが飛び出してから19打席続けてヒットがない(5月14日時点)。しかし、それは「一流」と認められた証でもあったのだ。
「相手バッテリーの攻め方が、えげつないものになってきました。きっかけはプロ初アーチです。あの打球、バットスイングの速さ、自信ありげな表情、『やっぱり清宮は本物だった』と、各球団は厳しい配球に変えてきたのです」(在京球団スコアラー)
18歳がオトナたちを本気にさせたのだ。
「一流」と認められ、より高いレベルでの戦いが始まった。これを乗り越えれば、「超一流」というわけだ。
「高校時代と比べれば一目瞭然。清宮は打撃フォームを改造しました」(同)
その“変化”は二段階に分けられる。
第一段階は、プロ入りからオープン戦までの期間だった。オープン戦でプロの壁にぶつかったのは繰り返すまでもないが、その苦しみはプロの打撃スタイルを知るために必要な時間でもあったのだ。
「打席での構え、つまり、バットを振りにいく時のスタイルが高校時代と変わりました。左腕を後ろに引くようになったのです。引きすぎていて、余計な力も入っているような感じでした」(球界関係者)
後ろに引きすぎた理由は、木製バットにあった。
清宮は高校に進んだ直後から、「試合は金属バット、練習は木製」と使い分けていた。プロを意識しての練習スタイルであり、木製バットに持ち替えた戸惑いはないと思われていた。しかし、そうではなかった。
「清宮は自身のイメージよりも飛ばないと感じていました。だから余計な力が入り、無意識のうちに左腕を後ろに引くようになったんです」(チーム関係者)
その過ちに気づいたのは、メジャーリーグ中継の観戦中だった。日本ハムの先輩、エンゼルス・大谷翔平の打撃フォームを見て、ある疑問がわいた。
「左の脇が空いている…」
一般論として、両脇は開かずに閉めるのが正しい打撃フォームとされている。清宮もそういう指導を受けてきた。大谷の構え方を模倣し、日本ハムの二軍コーチにも質問したという。
「打つ瞬間に脇が閉まっていればいいと分かったようです。同時に脇を閉めるためには、左腕をどんなふうに動かせばいいのかも学びました」(同)
左肘を下に下ろす。「下ろす」というより「突き刺す」ように…。そう、プロレスにおけるエルボーの要領だ。
左肘の動きが習得できると、左腕全体の動かし方も分かってきた。エルボーでスイングにいき、あとはラリアットのように腕を振る。「エルボーとラリアットの合体技」が、清宮のスイングを進化させたのだ。
「スイングが柔らかくなり、速さも増しました。エルボーを落とす動作は闘争心も高めるようです。力ではなく、スイングスピードで打球を飛ばせるようになりました」(同)
闘争心が高まったせいだろう。ある傾向も見られるようになった。清宮のプロ初安打は一軍に昇格した最初の試合で出ている。それも、第1打席だった。
「甘い球が来たら見逃さない。一撃で仕留めてみせる」
そんな闘争心も芽生えた。
「敵ながらあっぱれと思うのは、2ストライクを取られた後のフルスイングです。普通の新人なら結果(ヒット)を求めるあまり、2ストライク後はコンパクトスイングに変更します。清宮は自分のスタイルを貫きます」(前出・スコアラー)
また、“ふてぶてしい一面”も垣間見せていた。
一軍デビュー翌日(5月3日)の楽天戦、第3打席だった。第1、2打席は左投手のスライダーに翻弄されて三振。そのスライダーに的を絞り、ライト前にヒットを放った。これを見た対戦チームの先乗りスコアラーたちは、改めて「並みの新人とは違う」と実感した。
「清宮は初球からでも打ちにいきます。プロ1年生、それもまだ初対戦の投手ばかりなのに、いい度胸ですよ。今はまだ、日本ハムの先輩にも気を遣っておしゃべりも控えているみたいですが」(同)
プロ初アーチが出たのは、敵地・京セラドームだった。しかし、少年時代を知るアマチュア野球関係者は「やっぱり運命だ」と、意味深な感想を述べていた。
「中学硬式野球クラブ・調布シニアに在籍していた頃、清宮は自身のパワーを制御できず、フルスイングで腰を疲労骨折してしまいました。その骨折中に迎えた全国大会の初戦会場が、京セラドームだったのです。『声出しでもバットの片付けでも何でもやるから、ベンチから外さないでくれ』と泣いて頼んだのです」
晴れ舞台に立てなかった当時の悔しさも「エルボー&ラリアット」に秘められていたのかもしれない。
オトナたちのエゲツない配球を乗り越えた時、本塁打量産、真の怪物へと脱皮する。