「佐藤首相が『私の片腕』と呼び、幹事長は総裁派からということであれば、これは当然の人事であろう。蔵相を3年、その前が政調会長だったが、当時、党内閣の実力者を入れた“実力者内閣”に対し、田中政調会長らは“軽量執行部”と呼ばれた。3年を経た今日、重厚とは言われないまでも、もはや軽量と評する者はいない。
一方、決断の早さ、読みの深さ、政財界人への顔の広さの三つに裏打ちされた実行力があると、褒める人は言う。決断の早さは、予算折衝での手際のよさにも見られた。読みの深さは、池田(勇人)内閣に佐藤派が協力、そのあと佐藤内閣へという手順を誤らなかった当の立役者だったことにある。ただ、時に行動力がたたっての勇み足の心配がないではない。
また、ハラと策略を重んじるのが保守党旧派であるとすれば、政策と実行を軽視しない新しい感覚もある。が、若いときから鼻下にヒゲ、ナニワ節をうなり、将棋を指し、しかしゴルフはだめと、新旧両面が同居している奇妙な魅力も醸し出す。いつも陽の当たる場にいるので、佐藤派の中でも風当たりがやや強くなっているが、ちょっとやそっとでへこたれぬシンの強さも持つ」(昭和40年6月2日付)
長く田中の異名として知られた「コンピューター付きブルドーザー」は、この幹事長時に定着した。「ブルドーザー」は疲れを知らぬ行動力を表すのだが、例えば地元新潟で一度きりしか会っていない支援者のフルネームを、10年のブランクがあってもピタリ口を突いて出るといった超頭脳「コンピューター」ぶりも、いかんなく発揮された。これには、当時の幹事長番記者の次のような証言が残っている。
「幹事長のもとには、国会議員はじめ46都道府県(当時)の知事、市長、県会議員などの陳情が連日、押し寄せてくる。田中は受けられるものは『よし、これはやる』、無理なものは『これは出直しだ。練り直して持って来い』と、イエス、ノーで片っ端からさばいていた。とにかく“コンピューター”だから、一度でも視察に行ったところの地形などはすべて頭に入っている。ある県会議員などは、『君のところのあの川の川幅は、あと何メートル伸ばさなきゃいけないんじゃないか』などと逆質問され、田中が10年近く前に一度見ただけの場所の問題点を指摘され、『どんな頭の構造なんでしょう』とクビをひねっていたものだ。
田中のすごいのは、こうした次から次への陳情客を相手にしながら、しっかりとその人物がその県でどの程度の実力者なのかを事前に調べ上げていたことにある。そうした実力者にはできるだけ要望を聞き入れることで、この幹事長時代に全国に有力人脈を築いたということだった。これが、後に指揮を執った数々の選挙で、圧倒的勝利を収めた大きな要因となっている」
こうしたことがまた、強いては全国に「田中ファン」を増殖させ、やがては天下取りに結び付くことになる。田中の秘書にして愛人、常に傍らにいて二人三脚で政治行動をともにしていた佐藤昭子は、そのあたりのことを次のように語っている。
「田中は、新潟3区(当時の中選挙区での地元)のことしか考えない地元利益第一の政治家のように言われたけど、とんでもない。新潟と同じように、経済的に恵まれない貧しい地方にどうやって陽を当てるか、全国津々浦々に目配りをしていた。また、そういった地方の問題や選挙のみならず、中央の人事、外交、内政に関わる国の重要課題も、時を移さず処理していった。霞が関の官僚たちも、風呂敷に包んだ書類を提げて事務所にやってくる。田中に説明しに来るのではなく、指示を仰ぎに日参してきたのです」(『新潮45』平成6年10月号)
この佐藤は、かつて筆者がインタビューした折でも「田中が生涯の中で最も充実、生き生きしていたのが幹事長時代でした。まさに、水を得た魚。行動のひとつひとつが自信に満ち溢れていた」と証言している。
一方、以前、当連載で田中が重要ポストに就くと不思議に難題が立ちふさがると指摘したが、なるほど1期目のこの幹事長時も同様であった。
時に、最大の懸案は野党が徹底抗戦の構えを見せていた“日韓国会”を、どう乗り切るかにあった。佐藤首相は、「沖縄返還」とこの途絶していた韓国との国交正常化の二つを、戦後未処理の問題の中でも最も重要視していた。この国会での日韓正常化問題は、田中の真価、政治家としての今後が問われる場面だったのである。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。