2007年11月7日、12球団合同トライアウトで最も多くの拍手を贈られた男、それが宮地克彦である。2年連続の参加だった。この日に至るまで、彼は3つの目標を立てていた。自分に現役の道を与えてくれた鈴木康友監督(北信越BCリーグ・富山サンダーバーズ)を胴上げすること、サンダーバーズの本拠地、アルペンスタジアムを満員にすること、そして、NPBに復帰すること−−。
「完全燃焼しなければ、次の人生に進めない」
独立リーグでの啓蟄の1年間は、宮地を精神的に逞しくさせた。
福岡ソフトバンクホークスを解雇されたのは、06年オフ。悔やんでいても始まらない。2度目となるトライアウトの受験を決意した。
「まだ、燃え尽きていない。完全燃焼しないと、次の人生に進むことができない。野球をやり尽くしていない。その後の人生に進むにしても、完全燃焼してからでないと中途半端になってしまう。もし、今年1年で自分の野球人生が終わるかもしれないと分かっていたら、やり尽くすこともできる。その一心です」
“流転”の始まりは、03年オフだった。14年間も在籍した西武ライオンズ(当時)から、非情の通告を受けた。何故、自分が。悔しい。さまざまな思いが交錯する。まだ、自分は終わっていない。野球を続けたいという一心で、トライアウト受験を決意し、横浜、千葉ロッテ、近鉄の入団テストも受けた。
だが、おかしな風評も広がっていた。右膝の故障歴のことで、「終わった選手」と言われていたのだ。球団の編成担当者の前で50メートルを6秒1で走ってみせても、信じてもらえなかった。西武時代、たしかに「手術も…」と口にしたこともあるが、専門医は「その必要はない。プレーに全く障害もない」と断言してくれていた。
つまらない風評で野球人生を終わらせるなんて、絶対に出来ない。とはいっても、合格しないことには始まらない。
だが、運命とは分からないものである。ダイエーホークス外野陣の一角、村松有人がFA権を行使した。村松の残留を前提に補強を進めていたダイエーが慌てて、宮地にオファーを出した。
「初めて、自分で決めたことかもしれない」
戦力外通告を受けて、自分がどれだけ野球が好きだったかを知る者は多い。宮地もその一人だが、冷静に野球人生を振り返ってもいた。
思えば、尽誠学園高から西武に入団したのも、入団4年目に打者転向をしたのも“流れ”だった。ドラフト会議は球団が選手を選択するものであり、獲得した選手をどう育て、使っていくかは首脳陣が決める。福岡行きは、初めて自分自身で決めた。家族は残し、単身赴任で行くことにした。家のローンもある。またいつクビになるかも分からない。しかし、野球を続けると決めたのは自分だ。宮地は新しいユニフォームに袖を通した。