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アイドル 2015年11月16日 11時06分
9nine川島海荷、楽屋ハプニングに唖然! 中野サンプラザは何かが起こるクリスマスに!!
今年2回目の全国ツアーを開催中のガールズユニット9nineが、11月15日水戸LIGHT HOUSEでワンマンライブを行った。 1部2部ともソールドアウトして迎えた本公演は、開演前から観客の期待感が感じられ、オープニングSEからメンバーが登場すると、満員の会場のボルテージは一気に上がった。 9nineも観客の盛り上がりに応えるかのように、高いパフォーマンスを見せつけ、ツアータイトル『9nine LIVE CIRCUIT 2015 ADVANCE』そのままに、“ADVANCE(進化)”を証明した格好となった。 MCでは、茨城県民は、「いばらぎ」と言われることを気にする話や、給食に納豆が出ると言う茨城県あるあるなどで盛り上がった。川島海荷が、メンバーの着替え中に楽屋のドアを開けてしまったと思ったら、差し入れに来ていた吉井香奈恵の母がパンストを履き替え中だったという話を披露すると会場は大爆笑。 また、ツアーセミファイナルとなる東京・中野サンプラザ公演は、サブタイトルで「Cloud9 Xmas」とあり、クリスマスにちなんだサプライズ企画がある模様。川島海荷は観客に向かって「ADVANCEツアーのホールライブ、ぜひ観に来ていただきたいです!」と伝え、自信をのぞかせた。 茨城公演を終え、ツアーは残り3公演となった。今年は春と秋に2回のツアーを実施し、7月18日には東京・日比谷野外大音楽堂公演を成功させた彼女たち。12月20日(日)東京・中野サンプラザ、12月27日(日)大阪・サンケイブリーゼは、このツアー初のホール公演となり、今年の集大成を披露する場となる。すでに高いパフォーマンスに定評のある彼女たちだけに、どんな“ADVANCE(進化)”を見せてくれるのか、期待したい。『9nine LIVE CIRCUIT 2015 ADVANCE』http://www.lespros.co.jp/special/9nine/circuit_advance2015/11月28日(日):新潟・NEXS NIIGATA12月20日(日):東京・中野サンプラザ12月27日(日):大阪・サンケイブリーゼ
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芸能 2015年11月16日 11時01分
知英「チョコレートを一杯食べられてラッキー」
元KARAで女優の知英(ジヨン)が13日、東京・新宿タカシマヤで「キットカット ショコラトリー新TVCM発表会&新宿高島屋店オープン記念イベント」に出席した。 ジヨンは自身初のCMを会場で見て「初めてのCMはチョコレートのCMがいいなと思っていたんです。それが大好きなキットカットのCMだったので本当に嬉しかったです」とニッコリ。 CMの感想を問われると「短い時間で表現しなければいけないので… ほんの3秒ぐらいの中で食べておいしさを表現するのは難しかったですが、このチョコレートは本気でおいしいと思ったので自然に表現できました。CMでチョコレートを一杯食べられてラッキーです」と笑顔で語った。 女優として大活躍中の知英。来月のクリスマスの予定を聞かれると「お仕事だったら仕方ないですが、出来れば家族一緒にパーティーをしたいです」と話した。
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アイドル 2015年11月16日 10時46分
NGT48 新潟米PRで独自のキャラを出すメンバーも
15日アイドルグループNGT48のメンバー、奈良未遥、高橋真生、佐藤杏樹、太野彩香、小熊倫実、菅原りこ、清司麗菜が、都内で行われた「新潟米コシヒカリで作る!ニホンのキホンのゴハン」のイベントに出席し、おにぎりやみそ汁作りに挑戦した。 会場では新潟の50〜70代の農家のお母さんで結成された新潟県公式農家ユニット・新潟ライスガールズに、お米の炊き方や、みそ汁の出汁作り、おにぎりの握り方などの指導を受けた。 この日、同グループのキャプテン・北原里英や、兼任の柏木由紀ら頼りになる先輩たちは不在。メンバーは12〜18歳の新米アイドルばかりで緊張気味だったが、慣れない報道陣を前にして調理に奮戦した。 独自のキャラクターを炸裂させるメンバーおり、兵庫県から新潟県に移住し、現在は一人暮らしの太野は、自身の作る弁当に関して、「いつも学校にお弁当を作って持っていくのですが、ご飯をそのまま入れるだけなので、今度は三角に握っていきたいです」と衝撃発言。驚いた佐藤が「おかずは!?」と聞くと、「おかずはないです。家でも毎日お茶わんでご飯だけ食べています!」と明かしたのだった。 また、小熊は米の炊き方について、「炊飯器のお釜? に入れて、水でワーってやってドン! って入れてスタート!」独自の表現でコメントし、笑いを誘った。さらに、新潟県を一言で表すとなにかと質問されると「食べ物! 美味しい食べ物!!」と笑顔で発言し、MCを困惑させる場面などもあった。(斎藤雅道)
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アイドル 2015年11月16日 10時38分
AKB48・島崎遥香“ぱるる選抜”では指原は「不合格」と断言
AKB48の島崎遥香が15日、都内で行われた「バイトAKB第二弾『ぱるる選抜』」の記者発表会に出席した。 同企画では、求人情報サイト「バイトル」とコラボし、前回同様に、時給1000円で「AKB48」の一員として活動する「バイトAKB」を募集。さらに、第二弾となる今回は、選出されたメンバーたちに、「バイトル」のCMに出演してもらう他、プロデューサーに就任した島崎のプロデュースによる「ぱるる選抜」として、AKB48の総合プロデユーサー・秋元康氏が作詞を手掛ける楽曲でCDデビューもする。 プロデユーサーに就任したということで、メンバーの選考基準について島崎は「個人的には“顔”ですね。やっぱりアイドルだから、カワイイほうがいいですよね」とコメント。その発言を受け、報道陣から「島崎さん基準で指原莉乃さんは合格ですか?」と質問が飛ぶと、「不合格です」と即答し、笑いを誘った。 今回のグループで、島崎自身が参加するかは未定とのことだ。しかし、テレビ番組での共演もある、SMAP・中居正広が、プロデユースしたKis-My-Ft2のメンバー4人で構成されたユニット「舞祭組」を引き合いに出し、「中居さんがプロデュースしたので、負けないよう、それを超えるような面白いグループに出来たら」とプロデユーサーとしての対抗心は燃やしていた。 また、島崎は当日、やけどした左足に包帯を巻き、スリッパを履いて登場したが、やけどの理由については、「ぜんそくにいいと思って、ハーブティーを作っていたら、足にこぼしちゃいました」と明かした。(雅楽次郎)
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アイドル 2015年11月16日 10時30分
AKB48 竹内美宥 パリ訪問中の母と連絡がとれる
13日に同時多発テロが起こったフランスのパリに、AKB48の竹内美宥の母が訪れていたことがわかった。 竹内は13日に自身のツイッターで、「絶対ありえないだろうと思っていた最悪な事態。どうか母が無事パリから帰国できますようみなさんお祈りくださいませ…」とコメント。 状況が把握できていない様子であったが、その後14日に、「母はちょうどその頃舞台を観ていたようで、荷物を抱えながら状況も知らずとことこ帰ってきたみたいです…運良く舞台を観ていたおかげで何事もなかったようですが、よくも歩きで帰ってきたなぁと不安になるばかりです。一応ご報告までに」と無事であったことをツイッターで報告している。
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芸能 2015年11月16日 10時16分
阿藤快さんが死去
俳優の阿藤快さん(本名=阿藤公一)が亡くなったことがわかった。69歳だった。16日に東京都内の自宅で亡くなっているのを家族が発見した。 阿藤さんは神奈川県出身。東京都立大学卒。大学卒業後に劇団俳優座の舞台部に加入。俳優以外でもグルメや旅番組のレポーターとして活躍していた。
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社会 2015年11月15日 16時00分
達人政治家の処世の極意 第二十五回「池田勇人」
世の中なるようにしかならん。山より大きな獅子は出ない。難病克服から、それを学んだ。 生い立ち、環境、何ひとつ過不足のない人間が逆境にさらされることもなく一生を終わるなどは、宝クジの1等に当たるようなもので“奇跡”以外の何物でもない。富める者、貧しき者、強者、弱者の誰にでも、神サマは平等にそれなりの逆境を与えるように世の中はできている。生き抜くための勝負はその逆風に吹き飛ばされてしまうか、踏ん張りどころでもがきつつも前へ出られるかで決まる。後者の人物の一人が、今日の日本の経済大国を端緒に就けた池田勇人元首相である。 池田はエリートとして大蔵省に入って5年目、全身からウミが吹き出すという『落葉性天疱瘡』なる難病を得、生死をさまよう闘病の中で退転をよぎなくされた。この先どうする。絶望の淵に立った池田だったが大蔵省の先輩から愛すべき人間性と強い精神力を買われ、奇跡的に同省への復職を許された。その後、同期に大きく出遅れながらも仕事ぶりの卓抜さから、主税局長、次官と上り詰めた。 その大蔵省時代の池田に目を付けたのが時に権勢を誇った吉田茂元首相で、同省退官後、池田が衆院選出馬、初当選を飾るや第3次吉田内閣でこの1年生議員を大蔵大臣に抜擢した。池田は吉田のバックアップもあってその後も通産大臣などの要職を踏み、やがて「安保」で退陣した岸信介首相の後を受け、昭和35年7月、ついに首相の座にすわったのだった。首相としての池田は「寛容と忍耐」をモットーとし、「所得倍増計画」を推進する中で経済の高度成長を演出、戦後日本の立ち直りへ向けて国民に自信を蘇らせることを目指した。 その池田のリーダーシップの特徴は、豪放磊落、ヤンチャめいた稚気と陽気さの合い間に繊細さが絶妙に綾なすという性格から来た人間的魅力、これに部下が集まり、彼らの英知を結集して結果を出すというものだった。なるほど、大蔵大臣時代には「5人や10人の中小企業の業者が倒産、自殺してもやむを得ない」「貧乏人は米を食わずに麦を食べていればよろしい」と放言連発だったが、愛される人柄からすんでのところで辞任を免れた。通産大臣になると「役人から即大臣になったので人間の修業ができていなかった」と蔵相時代の放言にあっさりカブトを脱ぎ、首相になるや「私はウソを申しません。経済のことはこの池田にお任せ下さい」など茶目っ気たっぷりの自信を示したものであった。国民の多くは苦笑を交えつつ、こうした池田を容認したということだった。そうした中で、表題の「開き直り」の言葉があった。生死をさまよう難病体験という逆境の中から学んだ運命論、人生哲学を物事の判断と自らの行動基準としたということだった。 首相時代の池田は世論による政治家のゴルフと料亭通い批判を受け入れ、私邸で夜毎の酒を堪能した。まずはビールをグラス2杯、次いで郷里広島の銘酒『賀茂鶴』を3合ほど、さらにウイスキーのハイボールを2、3杯、シメはブランデーというのが“定番”だった。とてつもない酒豪であった。酔うと取り巻きを前に持ち前のガラガラ声で唯一の持ち歌、「〜花も 嵐もォ、踏み越えてェ〜」と『愛染かつら』を聴かせるのがこれもまた“定番”だった。歌はとてもうまいとはいえなかったが、義理と人情にもろい一面丸出しで、周囲はそんな池田の人柄を愛したということだった。 そんな池田は首相就任中に喉に癌の病いを得、名神高速道の一部と新幹線開通などで経済大国への道が目に見える形になった中、昭和39年10月24日の東京五輪の閉会式を待って、翌日、退陣を表明した。五輪の火が消えた象徴的な退陣日の演出は、池田を慕ってやまなかった側近の大平正芳(後の首相)によるものだった。翌年8月13日死去、享年65であった。妻・満枝は、「最後まで“ガキ大将”でしたね」と振り返っている。 政治家の人の集まりはその実力度に正比例するといわれている。人が集まらぬ政治家は、その程度の実力にすぎないと見られている。これは一般社会でも同様で、稚気と陽気さ、人間的魅力に溢れた人物には人、英知が集まるが、いくら仕事ができてもムッツリ型の気難しい人物には人も英知も集まりにくいのが通例。逆境の捉え方でその後の人生が変わるとともに、人間的魅力を磨けと池田は教えている。=敬称略=■池田勇人=第58、59、60代内閣総理大臣。大蔵大臣(第55、61、62代)、通商産業大臣(第2、7、19代)、自由党政調会長・幹事長などを歴任。「所得倍増計画」を打ち出し、高度経済成長の進展に大きな役割を果たした。小林吉弥(こばやしきちや) 永田町取材歴46年のベテラン政治評論家。この間、佐藤栄作内閣以降の大物議員に多数接触する一方、抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書多数。
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スポーツ 2015年11月15日 14時00分
USA発 新聞、テレビではわからないMLB「侍メジャーリーガーの逆襲」 特に待遇面で、まったく違った日米監督事情 メジャー“栄転”でも年俸半減 監督をやるなら日本に限る!
日本のプロ野球では巨人、阪神、DeNAの監督が交代し、それぞれ元主砲だった高橋由、金本、ラミレスが新監督に就任した。このうちDeNAに関しては、はじめから外国人監督の就任が噂され、有力候補に日ハムの元監督トレイ・ヒルマンの名が挙がっていた。 ヒルマンは日ハムでの実績が評価されて'08年にロイヤルズの監督に栄転したが、結果を残せず2年半でクビ。その後はドジャースのベンチコーチ(データ分析や作戦を担当)を経て、今季はアストロズのベンチコーチを務めている。 日本のメディアでヒルマンがDeNA新監督の有力候補と報じられると、アストロズはヒルマンに「面接許可」を与えると発表した。 大リーグでの監督の選考は、まず他球団で評判の高いコーチ、マイナーの監督、育成責任者、メジャーの監督経験者などから候補者を5、6人選ぶことから始め、次に候補者の所属する球団に「面接許可」を取ったうえで、全員を呼んで一人一人GMや球団幹部が面接を行なう。それによって2、3人に絞り込み、さらに長時間の面接を行って新監督が決まるのである。 そのためアストロズも、ヒルマンがDeNA球団から面接に呼ばれると思って事前に発表したのだ。 メジャー球団の監督がこのような方式で選ばれるのは、指導者としての資質や能力は選手時代の実績とは無関係で、実際に会って口頭試問しないと分からないという考え方が根底にあるからだ。そのためスター選手を育てた実績は問われるが、本人が元スター選手である必要はまったくない。 実際30球団の監督の中にはメジャーでのプレー経験のない監督が8人もいる。元スター選手の監督も4人いるが、その中に有能な者はおらず、2大監督と呼ばれるカブスのマドン監督とオリオールズのショーウォルター監督はともにメジャー経験はない。ワールドシリーズに進出したメッツのコリンズ監督(元オリックス監督)も同様である。 日米では監督の待遇にも大きな差がある。日本では監督がチームの顔とみなされ、チームと関係の深い元スター選手が就任することが多い。そのため年俸は多くが1億円以上と、主力選手並みに高い。それに対しメジャーの監督は統率力や管理能力を認められた専門職に過ぎないので、監督経験3年目までは年俸が平均60〜70万ドル(7200〜8400万円)と、新人選手の年俸(50万ドル)といくらも違わない。全監督の年俸の平均値も130万ドル(1.6億円)にすぎず、選手の平均年俸(425万ドル=5.1億円)の3分の1に満たないのだ。 そのため日本で監督を務めたあとメジャーの監督に“栄転”したヒルマン、コリンズ、元ロッテのバレンタインらは、総じて年俸がダウンしている。バレンタインはロッテ時代の年俸が350万ドル(当時のレートで3.5〜4.2億円)だったが、'12年にレッドソックス監督に就任した時は250万ドルだった。ヒルマンも日ハムからロイヤルズの監督に栄転したことで年俸が130万ドルから70万ドルに半減した。コリンズ監督も今季の年俸は100万ドル(1.2億円)。オリックス時代は基本年俸が150万ドルだったので、これも大幅ダウンだ。 コリンズ監督は今季、低迷が続いたメッツをワールドシリーズに進出させ、ナ・リーグの最優秀監督に選出される可能性が高くなっているが、それが実現したとしても年俸は20〜30万ドル上がる程度で、オリックス時代を上回ることはないだろう。 帰米後、メジャー球団の監督に就任できずマイナーの監督に甘んじる場合は悲惨だ。元広島、楽天監督のブラウンは日本でも年俸が60万ドル程度の低年俸だったが、ブルージェイズの3A監督時代('10〜'13)は年俸が6〜8万ドル(720〜960万円)だった。その4年間、毎年好成績を出しながら金銭的に全く報われないため、バカバカしくなり'13年限りで辞めてしまった。本人の希望は日本球団の監督に復帰することで、売り込みに来日したこともあったが、外国人監督志向は過去のものになっており実現の気配はない。 日本のメジャーファンの中には、松井秀喜とイチローが、日本ではなくメジャー球団の監督になってほしいと願っている人もいるが、それは見果てぬ夢に終わるだろう。いくら選手として実績があっても、メジャーではコーチやマイナーの監督としてある程度実績を積まないと、監督への道は開けないからだ。その点、日本のプロ野球は現役時代の実績と看板がものをいう。指導者としての資質を問われることなく監督に迎えてくれて2〜3億円の年俸まで保証されるのだから、いくらメジャー志向が強い彼らでも、こんなおいしい話は放っておかないだろう。スポーツジャーナリスト・友成那智*******************************************ともなり・なち 今はなきPLAYBOY日本版のスポーツ担当として、日本で活躍する元大リーガーらと交流。アメリカ野球に造詣が深く、現在は各媒体に大リーグ関連の記事を寄稿。'04年から毎年執筆している「完全メジャーリーグ選手名鑑」(廣済堂出版)は日本人大リーガーにも愛読者が多い。
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芸能 2015年11月15日 13時31分
たけし 若さの秘訣は「友達、家族、社会に反抗し続けること」
『第9回アンチエイジング大賞2015』授賞式が14日、都内で行われ、大賞に輝いたタレントのビートたけしが出席した。 アンチエイジング大賞とは毎年素敵に年齢を重ねて、いつも輝いている憧れの有名人・著名人から選出される賞。 大賞に輝いたたけしは受賞の感想を問われると「アンチエイジングは年をとっても若さを維持すること。世の中嫌なジジイがはびこっている時代にこういう立派な賞で表彰されるのは有難いです。漫才から始まって40年間働いて、色々な事がありましたがエンターテインメントの世界でまあまあの所を歩かせていただいているのは自分の努力というかファンのみなさんのおかげです」と殊勝に語った。 また若さの秘訣を聞かれると「友達、家族、社会に反抗し続けることが一番だと思います。特に家庭を顧みない、生かさず殺さず、そして離婚されず。このバランスを立ち回れば男は凄いですが、大抵の男は失敗してカミさんに捨てられたり、全財産を取られたりして路頭に迷ったり綱渡りみたいなものでね」と語った。 最後に「60過ぎたら人間若く見えた方が良いし、見栄えだけではなく体も精神も若くあるべきです」とたけしらしからぬ真面目発言。 またゲストとしてガダルカナル・タカも出席した。(アミーゴ・タケ)
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その他 2015年11月15日 13時00分
【幻の兵器】対戦車用ロケット弾発射器「試製四式七糎噴進砲」を持ちながらも携帯ロケットランチャーを開発供給できなかった日本軍
日本軍がアメリカの戦車と遭遇し始めた1942年、ドイツより国防軍兵器局員のパウル・ニーメラー大佐が来日し、当時の最新技術であった成形炸薬弾の模型や図面を日本陸軍へ譲り渡すとともに、実用化に向けた技術指導を行うこととなった。成形炸薬弾とはHEAT弾(HEAT=High Explosive Anti Tank)とも呼ばれる対戦車特殊砲弾で、漏斗状に成形された高性能爆薬の爆発によって発生する超高熱のジェット噴流を装甲板に吹き付け、その衝撃で貫通する弾頭のことである。 漏斗状に成形された爆薬を爆発させると、凹部の中心にエネルギーが集中して高温度のジェット噴流が発生する。この現象は1880年代にアメリカのモンローが発見し、その後、1898年にはドイツのノイマンが特許をとった事からモンロー、あるいはノイマン効果と呼ばれている。この砲弾の特徴は、目標に命中した後で発生するジェット噴流によって装甲を貫徹することから、射程距離や弾速による貫徹力の変動がないということで、低初速の火砲から発射しても大きな貫徹力が期待できるというものだった。 対戦車兵器の威力不足に悩んでいた日本陸海軍はこの特殊砲弾の国産化を図り、「タ弾」と名付けて研究を開始した。まず、小銃に取り付けた榴弾投擲器や、火砲から発射する方式で実用化を図りつつ、さらに携行型ロケットランチャーからタ弾を発射する兵器を開発した。これが試製四式七糎噴進砲であり、ロケット発射式のタ弾という意味から「ロタ弾」とも呼ばれる事もあった。日本陸軍の兵器行政本部は、遅くとも1942末から翌年初頭までにドイツから対戦車ロケットや無反動砲などの図面を入手しており、試製四式七糎噴進砲の開発に際してはそれらを参考にしたものと考えられる。 また、試製四式七糎噴進砲と並行して、より口径を大きくした試製九糎空挺隊用噴進砲も開発されていた。試製九糎空挺隊用噴進砲は、名称そのままに空挺部隊の主力対戦車火器として1944年には試作砲の試験を実施している。恐らく、前後して試製四式七糎噴進砲の試験も行われているだろうが、比較的簡単な構造の兵器にも関わらず実用化に手間取り、小倉造兵廠などで3500基程度が生産されたものの、実戦には参加しないまま敗戦を迎えた。 日本軍の四式噴進砲が口径70ミリで貫徹力100ミリに対し、米軍のロケットランチャーは口径2.36インチ(60ミリ)で150ミリの貫徹力を誇っており、火砲としての能力で見劣りしていた。これは、命中精度を高めるために一般的な砲弾と同様に回転飛翔するロケット弾を開発していたためで、砲弾の回転は装甲を貫徹する中心要素である高温度のジェット噴流の形成を阻害する(厳密には阻害要因を誘発する)のである。 そのうえ、日本軍は高温燃焼火薬の合成や、漏斗状成形部の精度を高い水準に維持することにも失敗していたのではないかと推測される。しかし、貫徹力は米軍の戦車に対して十分といえ、開発に手間取った原因は「技術的な要因よりも組織的な要因」にあると推測できる。 日本陸軍は高初速火砲の製造に必要不可欠な大腔圧(砲腔内部で発射薬が燃焼する際に発生する圧力)に耐える砲身の量産が不得意で、対戦車砲をはじめとして戦車主砲、高射砲の生産も遅々として進まなかった。しかし、ロケットを発射する場合は腔圧が事実上発生し無いに等しく、照準や撃発という部分を度外視すれば簡単なパイプやラックから発射することも可能だったのである。 そのため、携行型ロケットランチャーは極めて日本陸軍の情況に合致した兵器だったのだが、なぜか参謀本部も実戦部隊も全く関心を向けなかった。結局、日本陸軍はタ弾をあくまでも低初速火砲用の特殊砲弾と考え、歩兵が使用する携帯ロケットランチャーや無反動砲の開発にはあまり大きな力を向けることはなかった。 もちろん、連合軍の戦車を阻止するためには最低でも千門単位のロケットランチャーに加えて、それに見合うだけのタ弾が必要であり、日本軍にそれだけの兵器を用意することは全く不可能である。しかし、日本陸軍は1930年代の初めよりロケット兵器の研究を熱心に進めてたことなどから考えると、その気になれば1943年中に携行型ロケットランチャーを開発することも不可能ではなかったろうし、試験から直ちに量産を開始していれば硫黄島戦か、あるいは沖縄戦には実戦部隊への配備も可能だったかもしれない。 にもかかわらず、陸軍兵器行政本部では低初速で大きな装甲貫徹能力を発揮すると言うタ弾(成形炸薬弾)の利点を認める一方で、命中しても戦車の車体内部をあまり破壊できないという点や、戦車が金網やうすい鉄板を車体外側に設置するなどの対策をとると容易に阻止されてしまう、さらに初速が低いために命中させにくいなど様々な問題点を指摘している。また、タ弾に関心を示さなかったのは現場の将兵も同様で、そもそも成形炸薬弾の特性さえ把握していないような状態であった。 有効な対戦車兵器を開発する能力がありながらも、あえてそれを開発しなかった日本とは対照的に、アメリカ陸軍は1942年に制式化したM1ロケットランチャー(バズーカ)を直ちに量産し、連合軍の勝利に大きく貢献している。携行型ロケットランチャーの開発をめぐる日本とアメリカの違いは、生産能力の差以上に対戦車戦闘に対する認識の相違を感じさせられる。いささか斜視的にすぎるかもしれないが、このように必要な兵器を必要とされる瞬間に供給できなかったという事実は、日本の戦争指導方針そのものが長期計画を持たない場当たり的なものであったことを示唆していると言えないだろうか。(隔週日曜日に掲載)
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