また、一方で所得減税か企業減税かの議論が出ている中、時に大蔵省主計局が所得減税に意欲的な発言、対して田中は企業減税を主張して次のようないささか人を食った「タマゴとニワトリ」論法を口にしたのだった。
「タマゴをそのまま食ってしまうか、それともこれを一度かえしてニワトリとし、タマゴの拡大再生産といくか、どっちが賢いやり方かは子供だって分かる。国の経済全体を進ませなきゃならんとなれば、まずタマゴをニワトリにかえす必要がある」
蔵相就任から2年余りのこうしたさなか、折から病と闘っていた池田勇人首相が再起はもはや無理と、昭和39年11月、内閣総辞職を決断した。池田は後継首相に佐藤栄作を指名、佐藤は官房長官を除き他の閣僚を留任させた形で第1次内閣をスタートさせた。もとより、田中も蔵相として留任した。
すでに10月には東海道新幹線開業、同じく東京オリンピック開会と、時に戦後20年を前にしてこの国の復興ぶりは「ホップ」から「ステップ」の段階に入ろうとしていた。蔵相3期目のスタートを切ることができた田中の“意気込み”について、当時の大蔵省担当記者のこんな証言が残っている。
「田中は大蔵大臣就任直後、蔵相秘書官をしていた秘書の早坂茂三(後に政治評論家)にこう言ったそうです。『オレは天下取りに乗り出すッ』と。新聞もおおむね、『田中蔵相はこのところ笑いが止まらない』と書いた。私らもそれまでは親しみを込めて『角さん』と呼んでいたのだが、蔵相2年目あたりからは『大臣』と呼ぶようになった。天下取りへの自信をつけたか、ひと回り大きく見えるようになったということです」
ためか、この期「祖国」新潟の“建国”青写真というべきものをブチ上げている。これは同時に、後の「日本列島改造論」への意欲を見せたということでもあった。地元紙『新潟日報』のインタビューに、意気軒高、こう答えている(昭和40年元旦付)。
「これまで経済政策は、東京、大阪へカネを注ぎ込むことが一番効率的だという考え方だったが、実はこれは効率的じゃない。なぜか。人口が産業が、そして文化が集中し過ぎて、とにかく地下鉄工事一つやっても最低キロ当たり45億円も掛かるんだ。
ところが、オリンピック高速道路1本に掛けたカネを九州へ持っていくと、九州中の道路が全部舗装、改良できる。すると、東京の1本の道路による経済指数より、南九州の道路整備による工業化の方が効率がいいという指数がはじかれる。沼田ダムを造ると、東京の水の状態は確かによくなるが、それだけのカネを四国4県に投資すれば、四国県民の所得が20倍にハネ上がるんだ。私はね、今や明治から100年続いた財政政策の転換が必要だと思っている。ために、予算の額は少ないかもしれんが、とにかく地域開発重視の方向を初めて取り入れましたよ。鉄道、道路、港湾などの公共事業長期計画をもう一度検討して、集中投資をやろうと決めたんです。
また、新潟県のこれからということでは、とにかく東京の電車を新潟県民が動かしている(新潟の雪、水で電力を供給しているの意)。例えば、県民がコメの出荷をストップさせたらどうなるんだ。これ一つ考えたって、他県にない新潟県の特性だ。水も豊富でしょ。一定の距離をおいて、東京と結び付いているんだ。立地条件はいいんです。私は新潟の新産業都市は、全国13地区のうち岡山県南地区とともに一番大きくなると思っていますよ。国道17、18号線の改良、上越線の複線化、越後線の急行化、富山と長岡間の電化など、いずれここ2、3年くらいまでにはできるようにした。そうなると、県にとって不要な“通過貨物”のハケ方が早くなる。これによって県の工業化が10倍になっても輸送力はオーケーという状態になるんです。
まぁ、ねェ、関越自動車道は私の次の大蔵大臣の問題ですナ。ここまで考えて、なおかつ新潟県は発展するかどうかと疑問を持つ人があれば、これは石橋をたたいても渡らん人ということになるんです」
しかし、好事魔多し。田中は折からの不気味な株式相場、よもやの難題に立ち向かわざるを得なくなるのだった。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。