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天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 宇野宗佑・千代夫人(下)

 前号で宇野宗佑が千代と出会って間もなく、「本当に早く(結婚の)返事をくれなかったら君と刺し違えて死ぬ」と“迫力満点”で口説いたことを記したが、なぜ千代にそこまで惚れたのかについては、宇野自身の次のような告白がある。
 「まあ、一目惚れですナ。面食いじゃないけど、やっぱり顔がよかった。それに、着物から見える首筋かな。逢い引きでは、京都の松尾大社にも行った。昭和23年(1948年)頃は、まだ男と女が手をつないで歩く人は少なかったが、ちゃんと手をつないどる。後ろから手を回して、ちゃんと家内が私の腕を持っておった」(『宝石』平成5年6月号)

 千代は京都の茶道・裏千家の13世円能斎の実弟、広瀬拙斎の次女という名門の出である。京都府立第二高等女学校を卒業、製薬会社に就職したが、終戦の年に退職してしばらく兄の家にいた。そこに、シベリアで一緒に抑留されていたその千代の兄の京都の家に宇野が立ち寄ったのが、2人の出会いであった。挨拶に出てきたのが、千代だったのだ。宇野は神戸商大のとき学徒出陣で北朝鮮へ行き、終戦とともに捕虜になってシベリア抑留を余儀なくされていたのだった。出会って間もなく、前述のような経緯があって、たった1カ月程で結婚ということになった。ヤルことは素早い宇野である。
 しかし、新妻の千代にとっては、嫁ぎ先の宇野家というのがなかなかタイヘンであった。宇野家は近江・滋賀県で明治初期からの造り酒屋。宇野は4代目当主であった。祖父母、両親、弟や妹など合わせて16人の家族のほか、酒の仕込みの杜氏などの従業員も冬場にはドッと集団で集まることから、食事、洗濯などでテンテコ舞いの日々を送らされた。
 ちなみに、宇野は酒にめっぽう強く、「呑ませれば一升も軽い。政界でも酒豪“3本指”に入った」と、のちに衆院議員となった中曽根派の担当記者の証言がある。総理になって神楽坂の芸者を「3本指」(月の手当て30万円)で口説いて大スキャンダルとなり、その座を追われた宇野だったが、「3本指」にはどうもエンがあるようだ。

 結婚から2年目、宇野は滋賀県議選に打って出、29歳でトップ当選を飾ったが、このときも千代は長女を出産して間がなかったが、メガフォンを持って夫の選挙戦に巻き込まれた。まさに、休む間のない新妻生活であった。
 宇野はその後、県議2期を経て衆院議員に転じ、何をやらせても手堅くこなす実務型政治家として定評があり、防衛庁長官、通産、外務など大臣を5ポストも歴任、そのうえで総理の頂に立ったのだった。そしての、「3本指」スキャンダルによる失脚であった。

 このスキャンダルにより総理在任中の69日間を「針のムシロ」ですごした千代としては、退陣直後の総選挙はいよいよ“背水の陣”でもあったのだった。当時の中曽根担当記者の証言がある。
 「それまで楽勝の選挙を続けてきた宇野は、演説が終わると必ず壇から下りて聴衆と握手、頭の下げっ放しだった。まさに、プライドを捨てた選挙だった。夫人は、連日、お願いの電話をかけまくっていた。まま街頭に出たときは、宇野の女性問題には一切言及せず、『夫は年とともに私を大事にしてくれるようになりました』などとだけで頭を下げていましたね」
 フタを開けると、新聞各紙の戦前予想は「ギリギリ当選か」というものだったが、前回票を大きく上回る形で、なんとトップ当選を飾ることができたのだった。新聞はおおむね「女性問題をバネに、攻めの姿勢で臨んだのが功を奏した」と総括した。

 宇野という政治家は、実は一方で趣味人、粋人との評があった。言うなれば、「文人政治家」ということである。自註句集など、俳人として10冊ほどの著作もあり、ピアノ、ハーモニカは玄人、絵画、書もよくやるし、麻雀、カラオケ、ダンスも巧みで、剣道も正真正銘の五段の腕前といった具合だった。また、人形の収集はじつに2万5000体に及び、自ら器用に郷土人形の制作もやってみせたものである。
 その上で「犂子」との俳号を持ち、その句集『宇野犂子集』には、次のような“名句”が散見できるのである。なにやら、ここでもまた「3本指」をホーフツさせるような粋な一句である。

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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