橋下代表は上機嫌だった。自らの不倫スキャンダルまで笑いのネタにして、日本維新の会が、日本を変えるのだということを弁舌さわやかにアピール。自らの言葉に酔うようにしゃべり続ける橋下代表の挨拶を聞きながら、私は背筋が寒くなる思いを禁じ得なかった。ハシズムと呼ばれる独裁体制が、いよいよ国政にも広がり始めたからだ。
もちろん、橋下代表は、「私は独裁者になります」などとは言わない。維新八策に掲げたように「統治機構の作り直し」と言うのだ。たとえば、首相公選制の導入はその象徴だ。国民が直接首相を選べば、民主的な選挙になる。一見、そう思える。しかし、それは同時に過半数の国民の支持を受ければ、「民意は自分にある」と、やりたい放題ができるということなのだ。たとえば昨年の大阪市長選挙で、橋下氏は75万票、対抗馬の平松前市長は52万票だった。大阪市民の41%は、平松市政を評価していたのだ。しかし、橋下市長は民意を得たとして、41%の市民の声を無視したのだ。
維新八策が、「憲法改正の国会発議条件を3分の2の賛成から2分の1の賛成に切り替える」としていることや「参議院の廃止」も発想は同じだ。チェック機構をどんどん外して、1回だけ過半数を取れば、国を意のままに操れる仕組みを作ろうというのだ。
民主党政権発足前は、各省庁の事務次官が一堂に会した事務次官会議で主要政策を決めていた。まさに官僚主導の政策決定が行われていたのだが、この会議のルールは全会一致だった。どの省庁の事務次官でも、たった一人が反対すれば、議案は否決されるのだ。太平洋戦争のときの軍部の暴走を二度と繰り返さないために導入された知恵だった。
橋下代表は、ちょうど正反対の統治をやろうとしている。他人の意見は聞かない。橋下氏が決めれば、全員が言いなりになるという統治だ。その片鱗はすでに表れている。
たとえば、9月9日に開かれた維新の会の公開討論会では、参加者が橋下礼賛を繰り返すばかりだった。民主党を離党して参加した松野頼久氏は、民主党時代、TPPを慎重に考える会の幹事長だった。それなのにTPP推進派の橋下氏に何も言えないのだ。
また、松下金融相の死去に伴う衆院鹿児島三区の補欠選挙でも、維新の会は、松井一郎氏が候補者を擁立することを検討するとしたが、橋下代表の「擁立すれば、選挙屋として見られる」という鶴の一声で、ひっくり返されてしまった。一番の身内である松井幹事長の言葉にさえ、橋下氏は耳を貸さなくなっているのだ。
もうひとつ恐ろしいのは、橋下氏がナショナリズムという民意を惹きつける新たな手段を得たことだ。
9月10日の発足記念パーティーで、『日本維新の会』のロゴマークに描かれた日本列島には、尖閣も竹島も入っていると橋下代表は胸を張った。そして、パーティーは、参加者全員が、君が代を斉唱するところから始まったのだ。なぜか大手メディアは、その様子を伝えなかったが、私は、そこにこそ維新の会の本質があるのだと思う。