『赤城同友会』という組織をつくり、兵頭家の畑地を一時的に借りて、地元の協力者数名とともに発掘を開始した。穴が深くなるとウインチも導入。間もなく、「天門入口・辛宝庫」と彫られた石が出土した。
穴の深さは19メートルに達していた。地下から現れたのはそれだけではない。一つは易で用いられる基本図象の「≡」(乾)と三角形、これは天門の基点を表すものだ。ほかに「丁」の字を彫ったものもあった。
剣持はそこから酉(西)の方角に財宝があると解読し、横穴を掘ったが、途中で「戌(北西)の方角に曲がれ」という印が現れたので、その通りに進むと、「疑(うそ)」の文字が彫られた石と炭が出てきた。これで「炭=済み(終わり)」ということか。
さらに横穴をジグザグに掘ったが、黄金は姿を現さない。後に剣持から筆者に届いた手紙には、「これらは陽動作戦、すなわち、人々の目を赤城山麓にくぎ付けにするための囮であると見破った」と書かれていた。
本当のところはわからない。そう考えた理由を、本人の口から詳しく聞き出すことができなかったし、第一、出土品の存在を筆者は確認していない。
剣持が赤城山麓に見切りを付けたのは、それだけではないようだ。水野父子や三枝茂三郎が見つけたと伝えられる物証や埋蔵の痕跡を、全て陽動作戦と結論づけている。古兵法『八門遁甲』の論理に合わないということだろうか。その後、彼は高崎市の碓氷川河畔の乗附というところに注目し、独力で発掘もやったようだが、こちらも失敗に終わっている。
剣持は、どちらかといえばフィールドワークよりデスクワークを重視した人物だったが、晩年は精力的に山野を歩いている。そして、石碑や自然石に刻まれた文字や記号を丹念に調べ、カメラに収めた。その数は数千枚に及ぶという。
徳川埋蔵金に関連するものを探し求めたのだが、ついに成果らしいものはなかった。また、幕末に高崎郊外に住んで私塾を開いていた佐々木愚山という人物が、幕府の密偵で埋蔵金に関係したとみていたようだが、それも見当違いだったと思われる。
一方、剣持が断念した芳ヶ沢だが、実はそれ以後も別の人物によって発掘が行われている。それも、重機を使った大掛かりなものだった。
重機による徳川埋蔵金探しというと、25年前のTBSテレビの番組がすぐ頭に浮かぶが、赤城山麓では決して珍しいことではない。時代をさかのぼれば、本シリーズの第1回目にも書いたが、最初は今から142年前の明治6年、アメリカ人によって行われた発掘だった。どんな機械を使ったのか資料がないので詳しいことはわからないが、昭和の初めまで存命だった地元の人の目撃談によると、大きな機械が白い煙を吹き上げていたというから、時代を考えれば内燃機関ではなく、蒸気機関を動力とした掘削機械だったと想像される。文明開化の当時、東京や横浜にはガス灯や電信柱の設置が始まっているから、柱を立てるために導入された掘削機があったのではないだろうか。
ともかく、それからほぼ100年後の1972年(昭和47年)、芳ヶ沢の大発掘に乗り出した人物がいる。東京プレバブという会社を経営していた庄司一春だ。彼は剣持が発見した「天門入口・辛宝庫」の石のことを知り、その謎解きに取り憑かれた。
しかし、それに成功したとは言えない。豊富な資金力にまかせて、最初は石が出土したところと剣持の探索地を含む一帯をブルドーザーで掘り起こし、えぐり取った大地のある1点に目星を付け、そこから縦穴を5メートル掘り下げ、さらに横穴を掘り進めた。
結局は、ただいたずらに大きな穴を掘っただけで、資金と労力の無駄遣いだったと言ってよい。トレジャーハンターの世界では、このような発掘を“総掘り”という。ポイントをはっきり決めずにやたら掘りまくることで、最も蔑視される。とにかく広く、深く掘ればターゲットにたどり着くだろうという甘い考えの者は今でもいる。中には4億3千万円を使い果たした上に、数千万の借金までつくった例も。地球が広いことを知ってほしい。
剣持が考えたように、赤城山麓が陽動作戦だったのなら、庄司はまんまと引っ掛かったことになる。水野父子も三枝茂三郎もしかり。だが、結論を出すにはまだちょっと早いかもしれない。本シリーズでは、あと一、二例、赤城山麓での探索を取り上げてみたいと思っている。
八重野充弘(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。