「棚橋のチャラいルックスを受けつけない昔ながらのファンは多く、立命館大学の先輩で棚橋との交流も深い芸人のユリオカ超特Qですら、『伸ばした後ろ髪を切りたい』なんて言っていたぐらいですからね」(プロレスライター)
実際問題として棚橋が新日のエース格になったのも、その実力や実績が認められてというよりも、成り行き上で仕方なくという面はあった。
闘魂三銃士の橋本真也と武藤敬司が団体から離れ、残る蝶野正洋も慢性的な首の故障から、常に最前線で闘うには厳しい。
長州力や佐々木健介もWJを旗揚げして離脱すると、第3世代の永田裕志や中西学は格闘技戦で惨敗した揚げ句に、藤田和之や高山善廣ら外敵軍の“当て馬”扱いされる体たらく。
新エース候補とされた中邑真輔も格闘技要員として駆り出されるうちに、故障やキャラクター変更で迷走状態となり、そうした中で消去法的に繰り上がったのが棚橋だった。
「もちろん、棚橋自身の努力や才能が認められたからこそ推されもしたわけですが、旧来ファンの望む方向性とは異なっていた。例えば2002年のG1初出場前には、藤波辰爾に師事してドラゴン殺法を伝授されていますが“巧さと技で魅せる”藤波式は、本流のストロングスタイルとは一線を画す。それまでは総帥・アントニオ猪木の手前もあって誰も言えなかったことを、棚橋は堂々と言い放ったわけです」(同)
それでも試合内容が伴えばアンチの声も静まろうが、残念ながらそうはならなかった。
'05年、ノアの東京ドーム大会で力皇の持つGHCヘビー級王座に挑戦した棚橋は、「王座戦なら当然、メインイベント」と主張したものの、実際の試合順はセミファイナルですらない後ろから4番目。しかも、その試合中にはドラゴン・ロケットを放つ際、ロープに足をかけて墜落するという失態を繰り返すことになる。
「棚橋は新弟子の頃から、仕上がったボディーと躍動感あふれる動きで高く評価されていましたが、大一番では気負いもあって空回りする印象がありましたね」(同)
翌'06年にはブロック・レスナーの持つIWGP王座への挑戦が発表されるも、これをレスナーがドタキャンする。
「挑戦前には中邑や永田にシングル戦で勝利するなど、棚橋の王座戴冠への機運が高まっていましたが、レスナーの欠場はそうした流れへの不満があったのかもしれません」(同)
その代替として行われた王座決定トーナメントを制した棚橋は、晴れて第45代王者となったものの、ベルトを巻いた後、観客に向けて「愛してまーす」と涙ながらに叫んだ姿には、むしろ白けた目を向けるファンの方が多かった。
棚橋のエース時代、新日のファン離れは進み、地方巡業では100人単位の観客しか集まらないことも珍しくなかった。最盛期の'96年には約40億円あった新日の売り上げが、'10年ごろには約10億円と4分の1にまで落ち込んだという。
しかし、それでも棚橋はメインのリングに立って、陽気に「愛してまーす」と繰り返した。状況が好転し始めたのは'12年ごろで、以後、売り上げは右肩上がり。新日奇跡のV字回復とまでいわれることになる。
会場に集まる女性ファンは“プ女子(プロレス女子)”とも呼ばれ、一種の社会現象としてメディアに取り上げられたりもした。
「この要因としては、新たに親会社となったブシロードの宣伝戦略の成果だとか、新エースのオカダ・カズチカのおかげだとかいわれています。だが、やはり今になってみると、冬の時代も変わらず今につながる明るいプロレスを続けてきた、棚橋の力が大きかったように思います」(同)
棚橋がキャッチフレーズとしている“100年に一人の逸材”は、元は仮面ライダーシリーズからの転用であるが、興行としてのプロレスの歴史が200年ほどであることからすると、史上1〜2の天才と自称しているとも受け取れる。
棚橋のアンチは、そうした自己顕示欲満々の姿をあざ笑ってきた。しかし、逆風の中にあって己のスタイルを貫くことのできるレスラーは、果たしてどれほどいるだろう。
'02年には、元恋人にナイフで刺されて死線をさまよいながら、自粛することなくチャラ男のキャラで押し通してみせた。
そんな棚橋の姿勢はファイトスタイルこそは異なれど、猪木の「どうってことねえや」の精神にも通じるものがあり、そう考えたときには“100年に一人”というのも、あながち大げさではないように思えてくる。
棚橋弘至(たなはし・ひろし) 1976年11月13日、岐阜県出身。身長181㎝、体重103㎏。得意技/ハイフライフロー、スリング・ブレイド。
文・脇本深八(元スポーツ紙記者)