「プロレスを辞めてから、雑誌や新聞を見るのが嫌でしたね。特に、同期の夏樹☆たいようや渋谷シュウ、風香、ひとつ下だけど栗原あゆみの活躍している姿は見たくなかった」
プロレス界から去った華名は、デザインの仕事に戻った。フリーで様々なデザインを請負い、DTPおよび印刷業務、動画編集および作成、Web制作まで手広く仕事した。1年半のブランクを経てプロレス界に戻ったが、デザインは捨てられず、今年7月1日には、株式会社オフィス華名を立ち上げ社長に就任した。
「女子プロレスラーでも一般の会社を立ち上げて、2つともいい仕事が出来るんだということを証明したいですね」と、一睡もしていないやや充血ぎみの目で熱く語った。
試合が週1〜2回、練習は週3〜4日、あとはすべてデザイン会社の仕事で埋め尽くされる。
「一睡もしてなくても、プロレスは辞めたくない」。難波のド根性娘、華名は、今日も精いっぱい走っている。
元々、華名は吉本興業のファンで、2丁目劇場の出待ちが趣味という、お笑い芸人が大好きな“追っかけ”パワーにあふれる娘だった。芸人にはプロレスファンが多くいるため、そこから興味を持ち始めてプロレスラーになったようなものだ。
だが、皮肉にも華名がデビューした年は、2004年6月。97年に老舗で最大手の全日本女子プロレスが崩壊し、NEO、アルシオンに分裂した。その後、アルシオンが解散して、AtoZが後を受け継ぐ形で誕生。そこの生え抜きだったのが華名だ。
デビュー当時は女子プロ界暗黒時代でもあった。かつては東京ドーム、両国国技館、有明コロシアムなどへ進出した時代もあったが、全女の経営破たんと同時に、人気は急降下。
どこの会場でも客が埋まらない。華やかな時代に黄金カードを出し尽したため、どんなカードもくすんでメーンを張れるものがない。何をやっても当たらないのが、その時期だった。
それでも、華名は、07年9月にリングに戻ってきた。女子プロレスの灯火を消さない、消したくない、そんな気持ちを胸にひと皮むけた新生・華名として…。
−−今、女子プロ界が低迷してますが。
「プロレス業界自体が受け身になっちゃってますよね。もっと外を見なきゃいけないですよ。そして、もっともっと攻撃していかないと。今、女子プロの団体が増えて、様々なところで試合してますが、ファンのパイを取り合ったところで、ファンが増えないと思うんですよ。だからこそ、外を見ないとダメなんです。たとえば、プロレスとは関係なしに、メディアに出たり、発見したりしていかなきゃいけない」
−−その他に気づくことは
「私は、好きな芸人がプロレスラーファンだったので、レスラーになったんですよ。それも良し。芸人さんが武藤(敬司)さんの物まねするのも宣伝になって良し。いろいろな分野が世界にはありますよね。それを利用してプロレスを進化させたいんですよ。ネットで何かやろうとは思ってるんですけどね。ただ、気づいたのは、プロレスで止まっているもの、それは興行形態なんです」
−−入場料なども、ほとんど昔から変わらない。
「そうなんですよ。もうチマチマ稼ぐんじゃなく、大きく行きましょうよ。夢? そうですね、今、高橋奈苗さんたちとパッション・レッドというユニットを組んでるんですけど、勢いがあって楽しいんで、パッションで横浜文化体育館を満員にしたいです」
−−いつも前向きですが、失敗談はない?
「ありますよ。たとえば、コレ恥ずかしい話なんですけど、水着の股の部分が破れてて、外が白、中が赤の二重に作られてたんですけど、白が破れて赤の布が見えちゃってたんですよ。股に赤ですよ。ファンに気づかれてたんですけど、買い換えるお金もなかったんでしばらく履いてました(笑)」
−−でも、華名さんなら大丈夫。強気だもの。
「はい。攻め、攻め。狙えるなら相討ちくらいの攻撃でいきたい。これが人生であり、プロレスなんですよ」
<プロフィール>
本名=浦井佳奈子。1984年9月26日生まれ。大阪府大阪市出身。160センチ、61キロ。04年6月16日、東京・後楽園ホール、玲央奈戦でデビュー。AtoZの生え抜きだったが、06年3月に慢性腎炎による体調不良で引退。07年9月に再デビュー。現在はNEO、JWP、WAVEなどに参戦している